2008年10月22日

文明度

文明は度合いにしか目的とすべき理念を持たない。この為に、それは地点として山頂の様に達成されるものでなく、絶えず登り続けられる山道の如くであるらしい。実際に、ある文明は圏域として、いつも比較によって辛うじてその有りかが知れるだけだ。文明度という理念は全く考慮に値する何事かであって、我々人類があらゆる智恵を動員して幾ら考えを詰めてみても、その段階という建築体系に行き当たるだけである。そして常にあらゆる人間生活を含むところのこの体系は依然、未完成だろう。天国に仕事がなければ話は別である。我々が完全に文明化しきるという理想はやはり、他の地域に比べてしか見出すことならない。

 すると人類自身が幾つかの国に別れて互いの土地を耕す限り、この市民秩序の偏差は競走の間にしか見つけられまい。結局我々が歴史から見逃して来たのは、人間競走には遅速の違いしかなかったという訳であった。ところでアキレスは亀に追い着かれはしない。これは比較文明論にとって絶対命題とすべき矛盾律である。従って先進後進という順序ではなく、単に人間界には目覚ましい市民秩序の達成に遅速があるに過ぎないだろう。アキレスの足と亀の足とではどうも長さ自体も違う。つまりは、連結する総ての世代で、相互の文化を最も摩擦少なく伝える方法論を備えた民族は、否応なくこの文明度の成長を他と引き比べて圧倒的とし、かつこの地位に他の民族が後から進むということは論理的にあり得ない。そしてこの固有の方法論は伝統と呼ばれる。考え方として社会は進歩するのではなく、単に先祖へ接ぎ木されるだけだと言えよう。文明間の競走には微視すれば差ほど進歩や退歩があるのではなく、その巨視的には社会体制に市民秩序の違いが次第に現れているというゆっくりした交易現象しかない。時間が相対的な様に空間も然りであって、例にたがわず文明や文化もこの夫々の違いをまるきり交換までもせず固有の系として保存する。熊と兎は各々の山路を経て暮らす。かれらの出会いは時たま起こる希な出来事であるが、この交差がどちらかの体系を吸収しても我々は進歩や退歩を考えはしまい。やはり社会はかれらごとに違う使命を背負う。
 文明に、競走が目的とはなりえないのがあきらかである。その度合い自体がつねに至るところ目的の形なのだ。これらの間にあまねく観られる遅速の偏差は、別途市民性として全く民族と呼ばれるに相応しい秩序足る。ゆえに人は民族間競合を実は殊更深刻に考える理由もなさそうだ。これらの文明度に見かけの遅速があるのは何ら、彼らの生活様態と無関係である。蛮俗の風習に恐れ入る人はその変哲な知識を以て百科辞典の頁に綴じる、だが彼らは永久に交わりはしない。答えとして文明度に於る普遍の意義はその系統であって、相互参照やお互いの文化圏への影響は民族間にとって誠に偶然に基づく仮の交遊としか思われない。彼らはもし相手の文化圏ごと自らの内へ摂取しうるほどに適当な間柄でなければ、やがて再び別れてゆき、自身家系の山道に入る他ない。誰もが仙人になるものではなく、彼らには途中の綺麗な畔の引かれた街や山奥の奇妙な踊りが特徴の部族を横目にしながら天の方へと、一途かつ自由に旅を続けるべき権利がある。この為に、最終的には地球の人間生息域には真に見事な文化系統樹が広く、育てられる筈。その各地気候の異なる山間へ旅する者は同じ種を蒔くにせよ。文明度に於て已、この人類世界という樹木の部品ごとの鮮やかな特長は、のちに注意深く社会学知識へ整理されるのだろう。根っこの堅固な保守組織を驚嘆に足る彩りゆたかで寛容な花弁の周囲の細胞と等価視できぬ者なら、その観察は全人類の麗しい互恵体が自然の合理性に由緒する事実へかなり冷淡と言うべきではないか。彼はこれらの緻密な細胞間の分立協業が太陽系の周期に、又その為に生ずる季節と風景に応じし規則立った移りゆきたる真理を、当面の人間競走へ夢中で従順な余り受験勉強に集中する結果、仕組まれた暗記計画でのみあると勘違いしていた。科学と科挙とは訳語は似てはいるが。