2008年6月24日

趣味論

生物がそうする様に、個性を適応価値の多彩さとして確保する要素とは場所の千差万別さ。草原が人類を淘汰したなら、人類は地球環境を自由に建築すること、又自然を保全することで今までにはなかった場所を作り出す。それらのどこかには、全く類のない個性を育むのに好都合な点があるだろう。だから、文明化ということは文化的には多様性の建築でなければならない。風土はこの敷地を与える。だからどの文明国にとっても美意識は必要以上に自由でなくてはならない。洋式の近代建築を醜いと感じる人間が多い程、その文化は近代文明圏から自律していると言っても良い。
 国際連合の様な国家間組織でも、美意識を侵害する権力は何人にもない。縁側で月を観て暮らす世界はエアコンの効いたガラス張りの家でなくても風流を涼しいと感じるかも知れない、或いは砂漠では窓が一切ない方が中庭からの星空が一層輝いて映るかも知れない。昼間だといっても薄暗い室内で百科全書を読み耽る人にとって、間仕切りもドアもない水上住宅で寝転がるのが涼を取る最適の手段であると心得るのは非常な想像力を伴う。全て、暖炉を必要としない地域にあってはカウチというものは寝る為にあるので、秋晴れの隅々まで新鮮な空気が染み渡った朝ぼらけの畳で起きることは単に苦痛でもあるだろう。冬に半袖で眠りにつける者には重ね着の流行る余地もない。風流の感覚、日常の感性への想像力がかくも異なる上ではその審美性がどうして違わないことがあるだろう。
 結局、我々を最大限の地域適格に導くのは芸術で、それらの内容は全くが文化独自の産物。だから芸術に個性がみられないところからはいかなる個性の発揮もありようがない。
 趣味の違いを有り難がる場所では、風土の制約は非常に弱まっている。良い趣味と良くない趣味とを見分けることができるのは見聞の鋭い者。一様ならざる文脈を芸術に認める世界にあっては、即ち道が多岐化された場所では隣人に感覚が同じなのは寧ろ恥となる。我々は趣味の相違を自然に欲する感情を持っている、唯、それが自明である人間にあっては殊更意識されないだけだ。自分が乗っているのと全く同じ型の車を見かけた時、安心するということは感性の麻痺でもあるだろう。そういう人間にとっては影が最高の模範。自分自身の真似をする影は結局、何の個性も持たないということだ。自らの個性に違和感がない場所からは、その数奇間を埋める如何なる独創も産まれない筈である。