経済的支持力に比べた人口の飽和により、都市生活の中で幾分かの生涯不産員すなわち子なしのおとなが存在しても、全体としてかれらのライフスタイルが人倫標準になるということは全くあり様はずもない。なぜならかれらは人間生存のため不適合であればこその不産だからだ。さもなくば人類は絶滅するだけである。
この様な子なし家は、それを望みながら単なる自然の働きにより実らない不運な場合を除けば、単に一世代の変態というだけだ。人類全員がそれを当然、いつしか至るべき模範とみなすことはないのである。人間が平等だということ、そして行動の自由を公共福祉に反しないかぎり許されるということは、非行も度合いこそあれ、人間に避けなければならない反面を示すために多少は必要だと言うに等しい。それは完全に同じパターンで動く機械では未知の状況に対処できないことから、人間性に成否の変化をつけながら全体としては成功の方へ進化する為には必然だろう。
婚外児とか核家族とかは実際、人倫の面では決して永劫褒むべき傾きだと誰しも考えはしまい。それらが合目的な審美表象でなければどこまでも欠如態としての定義しか与えられない。つまり婚外児がその変態的定義から通常嫡出子に比べてしまえば全世界中の憧れの理想にもなりえず、核家族がその文化定着法から分家の定義として表される以上それらの有り方はどれだけ多様になっても当然外の規格なのである。なぜならこれらは審美表象としては合目的性に叶うほど普遍に優れたスタイルではどうやらないからだ。過去の文明圏または先進国の全体がこの様な人倫を標準とした記録はない。逆に崩壊直前の国、イタリアルネサンスの末期やローマの後半では社会進出した女性や移民が増加した結果、家庭は省みられなくなった。従って自由の過剰ということが人倫本来の尊厳を歪める事は人間にこそあってはならないのである。
焉んぞ半端の事情しか知れない家系なら世々代々を経て最終的には否応なく、自然な淘汰により地表から途絶えるだけなのである。なぜなら家族という概念を幼少の彼らはせせこましい個人主義の中にしか見い出しもえず、結局は育ちの問題から人間関係の多彩な有り様を趣きの異なる角度から時の中で裕かに経験する事は必ずしもできず、典型的な家庭生活のそれは単に将来の学習課題とし改めて成人後に試行錯誤の実験を通じ再獲得されねばならないだろうから。いいかえれば彼らは生まれながらに豊かな家庭の中で育った子供に比べて、どのみち巨大なハンディキャップを押しつけられるしかなく、その責任のありかとしては他ならず、少なからず不十分な成育環境を予想しなかったか或いはそのくらいの文化度を到達されて然るべき限度と見なした親達の、怠慢ないし不倫に帰すしかない。ミルが云う様に普通程度の望ましい生存を恵まれない命を育むのは謂わば犯罪行為である。
だからもし運佳く非行に走らなければ彼の感心な子息は親世代の道徳から歪んだ、従って相対して過去の民俗にすら劣った人倫を自ずから批判対象として暗黙のうち、先祖の生活のみならず親孝行にすら反目して心の闇のうちに成長せざるを得ないであろう。そしてこの生命傾向はもし特殊な天才を付与されていなければ人倫適応的とみなされないことから、かれを地獄同然の場に生み出そうとした社会へ怨みを、のちに人間風紀そのものの破壊願望を孕むのである。
この種の生育環境は充分に満たされた伝統的な核大家族での成長を保障されないという意味ではみな、積極的な人間らしさに反面を提供できるからこそ許可もできる変態的な少数派の組織でのみ限定的に在りうるだろう。部落という用語が歴史の中で差別化を、ならば住み分けを要請する民間要求として再び持ち出されるのかもしれないのだ。
だが賢明な市民の目には都市生活の悲惨がその刹那趣味にあると直観できる。だから心配すべきは逆に、政府の妥協である。衆愚政が現実味を帯るのは都市圏の風俗が自己中心に傲り、より柔軟な周縁文明の興隆を抑えきれなくなる限りについてだ。こういう都市生活の内部が腐敗し尽すあとでその悪趣味を破壊し、是正し、やがて侵略解体するのはかつて抑圧せられてきた異文化の民俗である。
人口流入により辛うじて人員を補っている東京都の標準倫理は、寧ろ周縁文化地域に比べては今や明らかに低いと断定できる。
単なる生存不適合者としての子なしおとなが厚顔気楽にも人間平等を主張してもなんら白眼を剥かれないのは間違いなく、今日までの文明全域の達成度に対する人倫脱落の兆しであるからには。
昇華活動専用人員が働き蜂の様に遺伝子分岐ごと計画されたのではないのなら、我々の社会文化圏はこの種の変態人民を一つのならず者として範囲化せざるをえず、その数量が増大する限り、いつしかスラムに住み分けさせた乱倫人種として囲う結末を引き起こすことであろう。