2008年7月30日

地理学

人類が獲得する習性のどれも、自然界と人間界との、民族と交易との相互作用から導き出されてくる。単に人為が、でも風土がでもなくて、人間社会として現れる両方の混淆が、文化と呼ばれる行動機能を集積して行く。だから、我々は環境決定や環境可能という概念より、寧ろ環境文化と謂いうる不易流行の積算交通の網の目を体系的に観察してみるべきなのだ。
 人為は自然を変える。しかしそれは究極に於いて、民族性として周密されていく様な適応習性の伝承体としてである。だから人為は自然の部分なのだ。それは環境の中に、文化という二足歩行型哺乳類の独特な住みかを建築する本能形態の有り様なのである。我々は理性を不自然を意味させる、単なる対立概念として捉えていた。だが、本当は人間的本能という以外に説明づけられる能力ではない。如何なる人類にも理性が見つかる。そしてそれを導き出したものこそ文化なのだ。
 すべての文章を文化という観点から読み直してみなければならない。そうすれば、理性があらゆる場所と時代によって実に驚嘆すべき多種多彩な趣きへと変容しながら、地域文化の立脚となり伝わってきたのが理解できる。そして人類の史学は文明と野蛮という二分法を揚棄した、あらたな等価の観察を通じて紡ぎ直されねばならない。民俗学と民族学とは根本に於いて相異なる学野とは言えない。我々は文化学として人文地理学の整理を図るべきである。それは歴史と地理との地政学的混同の広場に、安心して汲み揚げられる共有の井戸を掘り抜く作業になるだろう。