人類が実在している範囲は決して普遍性の最も高い環境ではないか。今生宇宙の全体構造は展開速度について一定の埒を設けて置いたので、特にその周縁文明の発展に比べればバルジの内側のどの系も時間の上では後進性を余儀なくしよう。芸術に文化的貢献があるとして、やはりそれは交易の媒体として究極の基準としてだろう。やはり、というのは幾多の中間芸術の形相がこの決定的な役割に取って代わるが如き様を呈する中ででさえ、と伝統的理解の立場から。情報の通路としてどの粗野な段階の文化人も、最大の啓発後に達した芸術性をその共通の形態を通じて様式の比較へ感得できないものではない。抽象絵画を飾る近代化された空間でもそれが平面造形である、といった形式間の本質的互換性に於いてはどんな素人の中へも写実絵画との関連を語らせ得る。同等に、どの異文明系にある知性にとっても依然として壁面は何らかの装飾を施す技法の上で共有される空間方式。
もし科学知識の面での後発性が、にも関わらず学習されうる遅れであるのなら、要するに暇の持ち方如何に依る前後関係の可逆的特質という獲得形ならば、この面では必ずしも形式的互換性は最大の命題ではない。とある文明人が持った数理公式は、必然に他の彼らに援用され得るし、尚更学習可能であるところが学ばれるべきである数学性なら。
一般の道徳哲学は彼らの有する知識とその社会性への適用の度合いに求まり、この知識に応じて可変であった。ならやはり、道徳も知識の部分集合か少なくとも社会学野の倫理的特質に関する一定量の科学法則。人々が理念という言葉を持たない時、正義、公平、正直などの徳目には直観を除いて、やりとりの可不可でのそれにはやはり無知の侭だった。同然のことは万有引力や進化や有効需要についても運用できる。つまりいつも決まった言葉を持つということはつとめて後天的に学習できるらしい対象の性格、ということ。
人類と呼ばれてきた類人猿の延長に見いだせる動物種は、彼らの有する芸術の本質的互換性に応じてのみ、彼らの外部に実在している幾多の文明系との取引を可能とも不能ともするだろう。そして不能な場合、彼らは生活している次元が四次元の外にあることだろう。文字種が全く異なっても、文字と根本的に等価な通信手段を持つ惑星外実在との通信は、責めてもの翻訳の為として言葉同士の基本秩序を時間内認識規則として普通に蔵しているにちがいない。
だから当面の地球内知性が学芸のうち、きわめて基本となる形式に限って様式論を闘わすのは未来の文化地政的脱皮過程への準備を計る上では先見の明に啓かれた恭々しいなりわいなのである。学問それ自体が過剰に重視される時期には既につくられた鋳型へ後進が当て嵌めたに過ぎない意味論の方がずるがしこく正当化される傾向を逃れ出れないが、天文学知からの確実な視界として、将来に亙る未然の備えとしては芸術の形式の問題の方がより普遍性の高い文化であり堅実な仕事なのだ。なぜならこちらは知識の体系とはことなって、後生にも伝承を通じてしか容易には学習され得ない技法の体系なので、技は真似よりも伝達維持に手間取る分だけ希少とされ、その流通や貿易の為には先駆けて異文明間での目立った文物となりやすい。
学問程度の有無は合理化または倫理化の具ではあれど、模倣の域値から一歩以上なりとも出られる分限にはない。独創はただ、芸術に於いてのみあきらかに顕現される。かく芸術一般の巧妙さの程度すなわち特産性の高い生産量が質的差異化の骨なので、地球内文化の中で最大級の特徴を持った芸術性のありかこそ実は、惑星の外側から眺めた際に中心圏と目され勝ちな共同体接触の定点である。芸術の場は実際には文明化の法則にとっては史的な中央区となりうるものだった。珍しさという概念が宇宙的展開間の先後を問わずに変化への適応として形態を可塑化していく道理と重なるのもまた当然と言えるだろう。そこは様々な生物にとっては極めて交信や流行し易い場所だから。