2009年6月8日

地方制についての最小調整論

その集団が企業化する程、個性へ要求する費用の内容はより産業的となる。分業制による能率は会社集団の持っている変異の幅、且その専門度に基づく。有能な企業集団はこの協業過程について合目的性を達していると言える。だから勉めて企業性から学ぶ可だとすればそれは協業に関する効用の関数についてである。
 国民の中にちりばめられがちな地方色の在りかも、実際には文明の持つ演劇的美の術という目的の観点から分析すれば、やはり最大の企業式な効用の達成率へ向けて室礼えられる方が良いのだろう。
 秋田の県民性が土佐のそれとは大いに異なる所は犬の品種差が生じてきた由来と違いはない。特に国土の緯度や經度がかなりの振れ幅を存している場合にあっては、専門化した特産形質を夫々の地方分業へ必然な社会場づくりとして次第に洗い晒すことこそが結局はどの県民にとっても利益であり、経世済民術のもたらす行動最適化の効果に於いては多かれ少なかれ徳の完成と幸福へも繋がるだろう。
 最良の筋道を通ってこの目的を推し進めるのには、いわゆる自由放任の主義が基本となる。そもそも経済的合理の側面は富の分配をどこまでも最大の効用へ向けてひとりでに導いて行くものだ。ゆえ政府の介入は何らかの異常な不平が公益に関する矛盾としてあらわにならない限りは、最小限に留められねばならない。
 世継ぎの商人へ真理探求の学問を一心不乱に行わせるとか、雪で閉ざされる地域の職工へ外交のイロハを教え込むということは思慮賢明でないばかりか、中央政府の独断を全国民の奇習の形成へ向ける誤った分権の方途なのである。逆に、これら地域適応の結果として極めて安あがりで苦もなく働く陽気な取引業者の性格とか、ごく内気な県民性によって殆ど奇跡的なまでの完成度を持つ精密工業部品が器量よく仕上がるのならば、企業的合目的すなわち福祉を促進するという観点から、政府はそれらの極端な片寄りがおよぼしかねない特産成果の独占をなんらかの法的抑制か地方行政的な直接間接の調整措置により普く、結果的な協業化が計られる様に改善すべきである。
 しかしながら、この政治的調整はかならずや自然な地域社会生成からの後付けでなければならない。先を急ぎすぎる中央統制によって人工的につくられた社会主義都市のほぼすべては、世紀を跨がずに脆くも崩壊に至った。これは企業活動の繁茂が自発的でないところでは調度、気候風土に合わない移植された栽培作物の如く形質が場所柄へ根付かないからであった。そして神ならぬ人間の倫理分別が過不足のない生態系の調和よりも優っていることは殆どない。従って、土の成分まで相異なった真実の地政学についての我々の知識量の限界を思い知るならば、明らかに人為的悪意を持った公害の兆候が実際に生じるまでには、政府は地域間の諸々の格差が拡大しつづけるのをただ辛抱強く黙認しなければならないであろう。