2009年6月19日

文学の誤り

和文に存在する文学という言葉は全く不穏なものだと述べられていい。その発生時にはliterature(文物)の訳語として、science(知識)と混同されながら流布されたらしい。だが文学というものが有り得るならそれは辛うじて言語学の一種類でしかないはずだ。芸術という制作的営みと学問なかんづく科学という理論的営みとは混同されるべきではない。もしどちらかを取り違えれば、美的装いで着飾った体系的でない理論とか、あたかも衒学者の余技であるかの様に見せかけた似て非なる作品を審美的権威として偶像視させるおそれがある。それらは人知を混乱させる分だけ、なにかをさがして真剣に勉強する者の人生内で教養に割ける時間を無駄にする。
 日本語に於ける文学という言葉はできるかぎりはやく淘汰されるべきものである。我々は単に技芸としてしか評価されない天性の才能のもとづく文芸を学ぶという愚行を犯すことなく、それは娯楽と趣味の領域へ限って置き、代わりに着実な建設と積算によって学習と教育の可能な数学的知識を、すなわち科学だけをまなばねばならない。
 もし文について習い事ができるとすれば、それは過去に名文家として知られた才能の実例から辛うじて表現の手法を引きなおす程度ができるに過ぎないだろう。本歌取りをおこなえるだけの教養人は、にもかかわらず古人の精神を生まれ持たないとすれば胡散臭い小賢しさと見做されるに終る。心を感動させる短歌は生得的感性、つまり天性にもとづくのであり、決して習い事によって上手くも下手にもなりはしないだろう。