人間の大きな目的は決して快楽だけではないだろう。我々は理念の為、大義の為に殉死した祖先は山ほど知っているけれども、単なる快楽を得る目的で亡くなった者の名前はあまり知らない。金持ちが金を得る為に死ぬことはなく、それを失うおそれの為だけに生を省みないのである。つまり快苦は目的ではなく幸福を得る手段である。もしこの目的に背く様なら人は甘んじて快楽を避ける筈である。子孫の幸せを期す為に辛い労働へ勤しむ者は苦痛を避ける事が不幸だからそうする。同様に幸福と一致するか否かは快苦の源泉ではない。我々が苦痛を避けて快楽を求める様に行動するとしたら、それが偶々幸福観と合っているからで決して快楽そのものが目的とは言えない。質的功利性は理念に関する義務へ価値を認める。というのは、精神の快楽は殆どの場合、克己と云う様に肉体の持った本能を克服した理性の達成感に由来しているからだ。
快楽は量的には肉体の、質的には精神のそれに求められると考えられていい。代表的功利主義者たるベンサムとミルに関する批判つまり論理的基礎付けは、ロック以来のイギリス物質論の上に築かれたが為に肉体と精神との二元論を拒否してしまった事の混乱へのそれに求まりそうである。
最も単純な公理として「幸福とは肉体の平静さであり、精神の昂進である」と述べ上げるのは適当である。則ち、肉体的欲求の中庸を保つことはその過不足のない健康体の延長で得られ、精神についての快はこの逆としてのぞみうる最大級の興奮と促進とを類的活動中へ要求する。完全な功利主義はこの精神つまり知能と、肉体というそれを支える部位との調和に関する最大限度の合理的かつ倫理に昇華された批判を待つ。
我々が趣味主義についての可能なだけ理に叶った引き出し口を持つものならば、量的功利と質的なそれとを最も適切な一点で高度に的中させるような習慣づけ、すなわち最大多数の最高幸福の追求へ向かっての理性的判断力を広く啓発させる事をその哲学上の趣意とするもの。趣味が悪い、と云われるならばその習慣はやはり多数へ向けてこの最高の精神的快を浸透させるためには誤っているのであって、主観の好悪を抑えてみずからの性向を批判し直さねばならない。たとえそれが実用性や当時の多数派にとっての快楽原則へ合致し大いに人気を買ったとしても、一人の賢者から批判される余地が少しでもあるならやはりそれは完全な美術ではない。
もし完全な趣味が発見されるものなら、又それは常に時代の流行にとって的中を要する感覚的にすぐれた選択であるに違いないが、いついかなる世代から見ても彼はどこにも非難の余地がないばかりか、人類全体への福祉的意思の浸透という公益の観点からも最大の功利主義者その人と目されることになる。往年の徳川慶喜の様に、或いは幾度の挫折を通じてなお理想を貫こうとした多くの東洋の隠者の様に、決して世俗へ拘泥せず節度を保ちつづけた誇り高い趣味人を、我々はいずれ完璧たりえない生活という矛盾に満ちた経験をつとめて極めようとする求道者としてなお深く、敬愛するのである。