2020年8月19日

東京文化批判

僕と東京文化は、少なくとも過去一度も相性がよかった事がない。今後も多分全くよくないだろう。それにまさって相性が更に悪かったのは京都文化(特に京女流イケズ)と自分の相性だが、これらの文化、東京文化と京都文化ミームって、どういうわけか日本人一般が大好きらしいので、全く馬が合わない。先ず僕の目からみると、東京文化って物凄く下品なものなのである。東京人が夢中になっている漫画、アニメ、或いはゲームとか、僕の目からみると、殆どは語るに落ちる代物なのだが、どういうわけか知らないにしても、東京人一般はその種の感覚論なり趣味なりを、寸分も持っていない。まるで違う人々だ。
 僕も子供の頃から『ドラゴンボール』『ドラえもん』だのゲームなら『ドラゴンクエスト』だの、東京発といってもいいサブカルなるものに完全に囲まれていた。もっと幼い頃だったら『ノンタン』シリーズの絵本。ほかにも家にあった『のらくろ』とか。日本文学全集もあったから適当に、普通に読んでいた。しかし僕が高校で欧米美術が輸入後の、いわゆる純粋美術(英語ならファインアート)系の世界に入っていった頃から、それら近代小説(漱石や芥川含め)も、サブカルチャーだったんだなと次第に気づいていった。副文化とはいうが、要は応用美術の類といっていいだろう。漫画が立派な絵画とは言いづらい。

 浮世絵は、ジャポニズムが流行した時にフランスへ輸入されていたので、西洋人の間では近代化の興る中で行き詰っていた古典絵画から新たな技法を生み出すのに利用された。線描によって大胆に省略表現してあるのだから、ゴッホやロートレック、或いはモネらが写実から離れるのに直接参照したのも頷ける。けれども、僕はこの浮世絵というものが余り好きではない。どことなく下品な、卑俗な感じが漂っており、それだけでなく出自からしても江戸時代当時の漫画みたいなものなんである。まぁ版画ではあるけど、量産できるので安価にでき、春画とも黄表紙の挿絵などにも隣接していた。大衆商業絵画だった。
 漫画は、元はといえば、戦時中に手塚治虫がパラパラ漫画の延長で落書き描いてたみたいなところに遡れる子供文化だろうし、もっと厳密に遡ればポンチ絵が出てくるんだろうが、いづれにしても元来おふざけの絵なのである。漫の字は白川字学(『字統』)によれば「婦人の目の長くゆたかで美しい事」を意味する曼と、「水」を意味するさんずいで、「水の果てしなく連なる様」。そこから派生し、取りとめのない事など意味を生じる。
 現代日本語では滑稽な事にもあてて使う。漫談など。
 漫画もこの字脈で、滑稽な絵の意味だ。

 僕も子供の頃はテスト用紙の裏などに、早く課題終わって暇だからドラえもんとか『YAIBA!』の剣描いたり、中3でもクラス旗のデザインに採用されたかなんかで僕が描いたドラえもんの顔のになった気がする。それどころか姉なんざジブリでアニメーターになりたかったとかで美大行っていた。つまり、普通に僕も文化的に漫画育ちといえるのだが、それにもかかわらず、大人になる中で、殆どその文化を卒業してしまった。なぜかというと幼稚、或いは最近のとか特に下品で、というか絵としても感心する点がなく、下手で、量産型で、創意工夫がなく、鳥山明以後つまんなくしかみえなくなったからだ。
 この点が僕と、村上隆や奈良美智らが全然180度違う所なのだ。今後復活してくるかは分からんけどこないだこけたカオスラウンジもそうだった。漫画文化、特に東京漫画文化や京アニ文化に、僕は全く以て別の見方、死文化としての冷めきった目を注いでいた。
 だが僕が漫画を完全にみなくなったのではない。

 僕は相も変わらず美術マニアなので、サブカルだろうがハイカルだろうが見境なくみまくる。そこにすばらしいものがないか24時間365日体制(つまり常時稼動)で探しまくってもう随分たつというか子供の頃からずっとだが、最近でも感動した漫画ってのはあるんである。僕に。この自分に。アンチサブカルで。なにかの参考になる筈だから、当然見尽くしてはいないものの(一生かけようが全世界の全美術を見尽くすなど到底できた話ではない、しかし常時稼動でなるだけ網羅しようと血眼で無ジャンルに見続けているのは間違いない)、恐らく美術マニアと称していいであろう僕が、最近の漫画でいいなと思ったの書く。
 前も少し描いたけれども、僕は最近の漫画、東京・京都(但し宇治)で萌えとかいいだした以降の漫画は、全般的に嫌いである。特に猫娘の萌え化どころかセクシー化路線とか、ほんとイオナズンくらいはかけてちりぢりにしてやったらいいと思う。そういう下品なの、まじで要らない。庵野秀明あたりも悪い。プラグスーツ萌えが~とかね。まじで僕には寸分も要らない要素。だから宮崎駿のほうが庵野の5千倍は上だったといって間違いないであろう。シータにそんな要素ないし。それで十分すぎるでしょ。精神的なお話なんだから。エロティックな表現を使うところがおかしいんですね。庵野は。ネタなの、普通。その僕がである。「萌え」といってギャアギャアいってる秋葉系オタクとか、愚にもつかない猥褻物陳列罪こと自慰フィギュアを公然とヒルズ展示し、エビゾウ娘息子の精神汚染を試みる使徒・村上隆とかが、一体なにいってたのか、生まれて初めて若干理解したかもしれない漫画がある。ただ僕が勘違いしてるだけで萌えじゃないかも。
 もしかすると一般的な萌え感じゃないのかもしれん。というか多分違うだろう。それは今後この作文エッセイ読めば分かると思うが、僕が感心したのは『だがしかし』って漫画。あのヒロインの描き方。名前忘れたが、なにが興味深いかなら、上流階級の娘として描いてある。いわゆる秋葉系の観点じゃない。秋葉系の萌えってのは、ロリコン的目線か、さもなければ、エロティシズム系の性的目線である。要は性のモノ化。この点では『鬼滅の刃』でたまに妹とか女性キャラが着物はだけたり、そもそも猿ぐつわも萌え的表現かもしれない。少女を性的表象として描くわけだ。これが僕は倫理的に好きじゃないのだ。が。『だがしかし』では、確かにプールシーンはあるものの、それ以外のほぼ全ての場面では、基本的には、だが、ヒロインは直接性を伴う性的表象としては描かれないのである。もっと分かり易くいうと、多少あれ豊満な肉体美の表象で男性らを誘惑するみたいな、典型的漫画のキャラクター造形ではない。僕が、その種の秋葉系萌え表現が劇作内で許容されると思うのは、『ドラゴンボール』とか『ドラゴンクエスト』シリーズ内(ぱふぱふネタとか)でよくそうされるよう、メタ認知的な視点から性がネタ化されている時だ。いわばジョークの範囲として、本編と関係ない部分で、全体の中でおふざけが挿入される。
 したがって、僕にとって『だがしかし』内であのヒロインを明らかに性的表象として扱っていたのはプールシーンだけの様だったし(扉絵などで、人を肖像画的に扱ってある軽いエロス表現は、プラトンによるエロス定義などと絡んでまた別の議論も必要だしここでは除く)、そのプール場面も品位ルール内だ。そしていわば「性の括弧入れ」あるいは「性のネタ化」が行われているだけで、ふむふむ、そこまで品位の低くない漫画かと思ったんだが、それにもまして感心したのは、あの漫画そのものが一種の肖像漫画みたいなもので、しかも主題が上流階級の娘だった。正確にいうと上流っていうか社長令嬢だけどね。他の一般的な漫画って物語や筋があって、そこに色んな人物が何かを展開させて終わりという風になっている。でも『だがしかし』は、『GOGOモンスター』レベルに、基本何も起こらない。一夏の思い出を日常風景の中に点在させてるといってもよく、作者の劇作法が下手なだけかもしれないけどミニマリズムだ。確かに駄菓子紹介の懐かしネタとか、社長令嬢がドイナカの駄菓子屋通ってくるわけないでしょとか、こんな親いるわけないでしょとか、いかにもな漫画性も腐るほどあるにしても、全体として、品位を落としすぎない様に上流階級の娘を肖像的に描こうとしていた。そういう漫画だと思う、僕が読んだ限りだが。
 それで僕は遂に軽く感得した。ははぁ~。とんきんじんがいってる萌えってこれのこと? なんか偶像を造形して、その人に性的な表象を与え、それに対して発情してんのか?(間違ってるかもしれないが)となんとなく気づく事になった。僕にも下品でもない娘のある種の天真爛漫さみたいのが伝わってきた。

 結局こういう事。僕が最近の東京京都漫画アニメが嫌いでしょうがないのは、彼らが描いている偶像萌えが、僕には下品すぎて共感できなかったのだ。それは『だがしかし』のあの娘だけかなりの例外だったので、対照的に理解された。萌えが悪いのではなくその対象が、余りに下品すぎるからつまんないのだ。ブッダとかイエスとか、ギリシア神話の神々とか描いてるならまだ少しはわかる。いわゆる昔の聖像萌え。それって神聖さをまとった存在が、我々に立派な教訓を伝えてくれるからみてて感心するだろう。
 だが最近の漫画が描いてるのは一般にズブの庶民であって、なんにも徳性なんて持ち合わせていない。特に僕が大嫌いといってもいいのが、日本人大衆には大人気だった『君の名は』で、吐き気なしにはみれない程だが(故に適当に流してしかみれなかった)、なにがひどいかといえば観点も内容もだけど、酷く低俗な人々しか出てこないのである。自分に劣る様な人格の持ち主なんて長く見つめてたら気分悪い。しかし『だがしかし』の娘は、今調べたら枝垂しだれほたるというらしいが、大抵というか全ての場面で、自社の駄菓子のすばらしさを本気で(幾らか喜劇調に、行き過ぎて)語るだけである。それってなにか下品な人だろうか? 色恋に発情してる肉欲の塊で、田舎見下す頭の悪い偏見の持ち主だろうか? あの駄菓子屋は典型的ドイナカにあるので、わざわざといってもいいだろうが自分からそこに毎度通ってくるこのホタルさんは、何かそこに差別意識をもっているとは到底いえない。普通に、自社の製品を愛しているので、子供に喜んで貰おうとしても潰れかけの駄菓子屋に販促がてら、謎に通ってんである。ちなみに僕はこの『だがしかし』が面白い、とか、立派な作品だといってんではないので、勘違いしないでほしい。寧ろ最近の漫画の下品さがはなはだ酷すぎるのでその中では唯一、まだまともな(嘗ては当たり前だった、女性の人格を尊重する)感覚をわずかなりとも維持しているかもしれない、といってんだ。

 しかも、僕は新宿育ちなので完璧に『君の名は』のあのLOVE彫刻が置いてある交差点の場所とか学校の近所だったんで、毎度あるいていたけれども、はっきりいって。絵として嘘しかついてない。『君の名は』って。新海誠って、この人、絵描きとして嘘つき。リアリストの画家でもなければ表現に誠実でもない。僕もガチ画家なので絵を見る目は世界一厳しい。すぐわかる。新海の絵は、新宿の地下街に沢山いる浮浪者とか、あの超高層街の徹底したよそよそしさとかを排除して、妄想として描かれた、彼の脳内風景みたいなやつである。この点で聖地巡礼式の、美化様式みたいなの、僕は本当に吐き気するくらい嫌いだ。
 ちなみにな、俺は聖蹟桜ヶ丘を描いたジブリは、そこまでひどくなかった、寧ろ巧く描けていたと思っているのだ。どう違うの? 実際に(僕は調布住んでたんで電車ですぐだし自転車でも近所だったんで何度か行った)現地も観察して言うが、ジブリは嘘はついていない。あそこはあんな感じの街なのは確か。印象派にしてもね、バルビゾン派にしても、歴代風景画家にしても、浮世絵師の風景画でもなんでもいいけど、ワイエスの絵でさえ。要はみんなね、真剣に自分の目を通じて受けている風景の本質を、なるだけ現実感を伴って画布に写し取ろうとしていたんです。そのため色んな技法を開発せざるを得なかった。
 しかしだ。新海は自分の脳内妄想を先に描いて、それに現実の風景を似せる、という事をしてんですね。端的にいうと幻想画。イルカの絵で有名な、名前なんでしたっけ。いましたよね。あの人と同じです。基本手法が。それで現実感が喪失されてんですね。風景画の。それを綺麗綺麗といってるやつは馬鹿だ。あ。ラッセンですね。ラッセンの絵もわたくし、いわきにきてたとき直接みたんすけど、あれは新海のアニメ絵と全く同じものです。基本原理。それでひどく安っぽい。それなのに高いけど。確かに細かく描いてあるんだけど、どれもこれも装飾的な修辞が目的で、現実感が目的ではないんですねぇ、これが。だから僕は新海アニメをみて「嘘つくな」と思う。一瞬で。これは僕が絵描きなもんだからしょうがない。もうね、透けてみえてくるの。精神性から人格からなにから。性格から思考回路から。手法も。本当にちなまこ、ならぬちまなこ、ちまなこ美術マニアの人をね、全然だませないからそういう面は。こうともいえます。新海は自然や建築へのリスペクトないのね。自分の妄想を優先させており、しかもそれがひどく低俗なもんだから全体としてうんざりとする様な嘘っぽさで、みてられないほどおえーってなる。
 なんであんなのみて質感が鮮やかでいいっすとかいえちゃうのか、モギケンは。業界ゲームか。本気でやってみなよ、一回でもいいから、デッサンを。そしたらすぐわかるよ。自然って無限の奥行きがあって、こんな簡単になんかそれっぽくできないんだなって悟るから。光なんてのもそうだけど物質の質感だって、風景の中の現象だって同じだよ。そこを別の物にしちゃダメ。自然美以外のにせものに。ジブリはな、自然へのリスペクトは十分すぎるほどあるよ。特に男鹿和雄の風景な。背景画の。あれはガチ画家からみても、ほうほう、となるくらいの質はある。僕も画集買おうかと思ったもん、流石に純粋美術と比べると一段劣る低級感というか、うーん買うまでもないなって感じでまだもってないけどさ。本気でね、美術やってないのにね。適当に妄想描いてね、嘘ついてね。それで子供だましですよ。大衆はそんなのに騙されちゃうからいつも貧乏なんだよ。あるいはいつも馬鹿なままなんだよ。どの時代でも。嘘つきにだまされるから簡単に。現実感の表現ってそんなね、嘘ついてできるほど容易じゃないの。仮にな、浮世絵の画家でもいいよ。僕はちっとも好きじゃないけど、驟雨の絵あるじゃん、歌川広重の。隅田川にかかる橋かなんかの。『大はしあたけの夕立』。あれだって現実感を表現してあるわな。妄想内の新宿とか、まじで要らないんだよね、しかも嘘のつき方が悪質すぎるんだよ。現実の新宿きたねーわ。新海の中では西新宿がこう見えてんですね、随分と安っぽい上にうそ臭い街ですこと。あのLOVE彫刻の前のさ、わっかかかってる交差点とか僕は親友のO君とあそこの地下を掘ってあるテラスで、ペットボトルのお茶飲んだかなんかで思い出あるの。あんなじゃねーわ。もっと冷たいし、なんていうのか空虚なの。
 だからいってんだろ、最近の漫画アニメは糞なんだよって。嘘しかついてないし、その上その嘘が悪質なだけで何一つとして面白くない。ガチで。何一つ面白くないだけじゃなくて、極めて不快なだけ。そんなのに夢中になってる一般大衆ってのは、正真正銘の馬鹿でしょうな。嘘ぬきで。ひどい質だもん。

 宮崎駿が引退したからってね、新海もちあげてる馬鹿東京。もう亡びたらいいよ。本物と偽物の違いも分からない。僕がみてだよ? この僕ちゃんがみてだ。僕ちゃんが。絵にね、命懸けて生きてきた男がみてだよ? 宮崎駿は一応アニメーターとしては本物だと思う。漫画も質は一定よりは高いと思っている。漫画家としての駿は、一作しかみてないけど、勿論天才ではあったにしても、鈴木敏夫のせいなのか当人のせいなのかは知らないけどさ、中途半端に終わってしまった。だからナウシカだけで評価せざるをえないにしても、超絶技巧を最初から発揮してるから、『HUNTER×HUNTER(ハンターハンター)』よりは神だろ。漫画絵の次元でな。駿より鳥山明の方が巧いとは思いますよ。絵はね。本当に鳥山明は絵が巧い。これはもう僕も驚く。線描では彼に優る人ってそういないじゃないでしょうか? あんだけ少ない要素で、つくりこまれた世界観を微細にわたって矛盾も破綻もなく描くって、しかも色んな角度や目線からってそうできた芸当ではない。でもね、新海は全然巧くないよ? 僕がみる限り。これ本当だからね。なにこれ、って感じだよ。で? っていう。なんか下手に色使ってんな、とかだよ? 絵が巧くないの。これでもう僕は見る気なくすからね。絵描きだから。アニメでも。技法が単純すぎんのね、色んな意味で。純粋美術からみてもだよ。あれあるじゃん、広島の原爆アニメ。『この世界の片隅に』。あれはね、ところどころではほうほうってなる場面もあるよ。急に水墨画みたいになる場面。他は単純でつまんないけど。あれはジブリの高畑勲に学んでんじゃないすか、しらんけど。アニメで水墨画風にわざと要素をへらす方向への試みしてたよね、かぐや姫のアニメで。なんで下手なのを褒めて、上手いのを無視するの。それがもう東京人の劣化だわ。前からかもしれないし今後もそうなのかもしれないけど。もうダメ。君ら。見る目ないんだからやめて。文化担うの。これ本当の話です。
 まともに批評したり評価できる人いなかったらますます糞みたいなの人気にしちゃうよ。僕が他に最近感動したのは、『ゴースト・オブ・ツシマ』ね。特に白黒にできるモードも凄い。あれは本当に感激するくらい風景が美しくみえるし、ただ事ではないでしょう。黒沢映画に影響されているのではあるんだろうけど、それよりはっきり見えるから、日本画級の景色に見える場面が色々あるっぽいですね。ただ、この対馬の幽霊だって外人ですから。作ったの。Jason Connellだろ。お前ら東京人が作ってんのは新海アニメだろ。天と地の差ありますわ。嘘ぬきで。ハードはソニーかもしれんが。ソフトが。僕が言うんだから間違いない。後世から見直してみろよ。俺の言ったとおりになるから。だって事実だもん。

 そもそもな、村上隆すげーすげーって都民は六本木ヒルズでいってるがな、何が凄いの? 是非ともお教え願いたい。全国の学校にでも巡回させてみろよ。自慰像。全国の父兄が全速力でやってきて全力でPTAにちくるから。そりゃそうでしょ。猥褻物陳列罪ですよ。単なる。アメリカ美術の馬鹿さの生き写しだ。そんな三文アートもどきをな、欧米人が褒めてるから~。アートの文脈だ~。どうでもいいのね、ぶっちゃけ。下品なアートなんて唸るほどありますから。西洋美術。マネの娼婦の裸体画。イイネイイネっていえるの? 黒人を召使にして? 滅茶苦茶な絵ですよ。そんなの褒めてるんだよパリ人ってのは。酷い。そもそも奈良美智もね、僕の父の言葉を借りればね、「漫画だな」「はっきりいって(漫画を)馬鹿にしてるよ」っていってたからね? あの青森の十和田市現代美術館の前までいってだよ? それがアートファンでもない人の見方。それは当然じゃないでしょうか。大の大人がぬいぐるみに感激かい? 老人が。老人がみて「うわー凄い」ってなる? 奈良美智。まじめに何度も量産してるけど。レゾネみたけど。それってまったくさ、間違った観点だと思う。ナラミチってネタ作家なんだよ。漫画アニメ系の現代美術ではそんな下品でもなかったね、的ポジショニングだったの。でも漫画。それって偉いという事ではない。あんたら都民のな、東京基準のアートって、ぶっちゃけ糞の部類ですよ。僕からみると。これは何も偏見とかじゃなくて、巣でゴミみたいなのを褒めてんのね。君ら。世界中の美術をなるだけ見尽くして最高のを見極めたいなっていう僕のその純粋な目からみて。二流三流のものを一流扱いしているのが東京。精神年齢が低い。これが東京なるものの本質。幼稚。或いは下品。
 京都もそれに媚び売ってんだかなんだかしらねーが、つか昔からそうか。源氏物語も酷く下品だしな。淫行乱倫のどこがすばらしいのか。お前らだけだよ。野蛮人は。虚栄心にふけってる神道教祖の権力で、教祖一味の乱交模様を美化して。じゃあ君のいう最高のアートってなに?
 これ前も書いたけどね、『猫にからす』だよ。春草の。茨城県立近代美術館でみた。僕がみた全世界の美術であれを超えるほど上品な作品って一個もみたことないのね。もう血眼になって探してきたのは本当なのに、こんな常設展で何気なく置いてあったのかと。僕には、『猫に烏』は神作品なので、直接みないとなにをいってるのか絶対に分からない品物だとしても、本当に、本当にすばらしいのは絶対に疑う余地がない。ダビンチが~。ウォーホルが~。ウォーホルもすばらしいが、それを遥かに超えている。なにがか? 以前書いたのを貼っとくから読めばいい。
2020年8月6日のブログ「任天堂アンチの弁」の中ごろに、『猫に烏』の批評がでてくる)
 
 僕は絵をみて涙を流すほど感動した事は基本的にないが、この『猫に烏』に関しては、それを超える感動を得た。なにがかというと、僕にはこの世界が斯くほどいつくしいものだという現実感をあれほど伝えてきた作品は一個もない。他の西洋絵画なんざどれもこれも低俗な主題ばかりだった。嘘ではない。
 そしてだ? 純粋絵画の頂点に位置づけられる『猫に烏』と比べたらだよ? 全ての漫画アニメなんざ、そのはるかはるか下方、もう雲の下の下で、地の果て、いや、あのスラミーな大都会の池袋の忍者屋敷の前のな、ゴミ袋あさってるハシブトガラスのくちばしの先からさらに下、地下に流れているドブ色のドブだよ。神級の聖なる絵と、そこらのな、ゴミみたいな人間をチヤホヤチヤホヤして。私たち、いれかわってるぅ~~? お胸もみもみとかね、もう何度となく敗戦したらいいと思うそんな国。国というより東京都。うん。亡びるべき。そうでは? 他になにか感想もてます? ばかじゃないの、以外に。真正の馬鹿では。だからいってんだろ。僕からみたら東京は地獄なんだよって。相性悪いってのは僕が上品人間だからわざと婉曲的にいってやってんだ。お前らみたいな低俗極まりないゴミどもと同じ物とは思われないっていいたいの。『猫に烏』にあらわされた春草のみている宇宙の捉え方って。全く別の部類の人間の有様だろ。
 大観先生だって僕の地元人みてーなもんだろうがよ。大観を馬鹿にできるの? なんかツイッターのな、アホそうな美術史アカウントが下手とかいってたけど、なにいってんのって事。ちゃんと全作品網羅してみてみなよ。大観の富士だろうが海だろうが生々流転だろうが。日本画として下手といえるわけがないでしょ。大観の絵を実際にみてみたらいいよ。生で。大体が文人画の延長とまでは行かないが、つまりそこまでわざとつたなくはしてないけども、大体が、君子の山林での風雅な生き様とか、隠者ね、つまり。あるいは心のしずまるすばらしい風景とか描いた日本画ですよ。立派な。それのどこがヘタなのか。意味不明。ろくにね、ちゃんと生で実物をみてないのに、適当な風評を美術史ちゃんとか名乗ってる公的ぽくみせてる個人的じゃないアカウントで、名誉毀損するな。僕はかなり怒りをというか憤りを覚えてるからな、その点に。ちゃんと実物みろ。本物の高尚な日本画だ。そのどこがヘタなのか。意味が全くわからない。お前のいう巧拙の基準ってなに。写実性を指してるの? もしそうなら、全くの勘違いだね。だって大観って写実性を否定してんだもん。ちゃんと彼の画論まで読んだらどうです? 美術史なのってんなら。どこの素人輩かしりませんが、どっかの美大の学部生とかですか? 大観は精神性を顕すのが絵といった。大観の巧拙って、その精神の風韻をいかに表現し得ているかが基準なの。それが彼の感性論であり、審美論であり、絵画論であり、美術論であり、創作哲学なの。だからこれは素晴らしい絵ですねって大観の絵をみていう人もね、そこに現されている気韻をみてんのね。精神的絵画なわけ。お前はなにをみてんだ。
 写実的にモノをそっくりに描きました。そんな事いってたのはレオナルドだ。つまんねー画家だよ、大観先生に比べたら。だってそんなの写真のがよくできちゃうんだから、後からみたら。カメラオブスクーラ、はいはい。キアロスクーロはいはい。モノをそっくりに写真みたいに写す作業とか意味ないの。単に。大観がなんで独特のデフォルメをしてるか? それは彼が絵が下手だからだと思っちゃっていたのか? 思えちゃっていたか? 素人だからか? 絵描いた事なかったか? 彼の芸大生時代のデッサンみた事なかったか? 普通にな、写実性を否定して、精神的表現に一生かけて漸近していった画伯なのね、彼は。レオナルドが遠近法を3種類くらい開発しました。よく知ってますよそんなの、僕も。当然のごとくに。全部研究してますよ。10代で。そんなのね、誰でもできるの。だって理論的なものだから。でもね、大観先生のタッチができるかというとそういう事はない。それは西洋絵画みたいに理屈で作ってないわけ。大観がな、若い頃描いた富士から、最晩年の方に描いた富士まで一覧していってみろ。少なくとも琳派風の富士描いてた頃とか、明らかに写実性から大幅に離れてるからな? それでもまだ描いてんだからね、別パターンを。それってどういう事か? 飽きたとかじゃないわけ。より善い富士を探求してんの。
 レオナルドがスフマートを使いこなしていました。だから陶器みたいな重層的な光の反射率をもつ繊細な肌を描けました。知ってますよ当然の如くに。でもね、そういう技法と関係ない訳です。本当に素晴らしい絵のできばえって。だってそれって小手先の事だから、スフマート使おうがつまんない絵は描けるよ。所がお前らは。美術史たんだかなんだかしらんが。ヘタですと。意味がわからんのね。お前が下俗な馬鹿なだけだろっての。『生々流転』を一度でもいいから全部みたら? まじで一度もみた事ないのにヘタとかいってるの? もうね、画中で島流しにされかねない。君のいってる事。思想の表現されてるでしょ。レオナルドが巧いですか? 私『白貂を抱く貴婦人』生でみたけど、本気で、ぜーんぜん感動しなかったよ? ふーん、って思った。ただ婦人像を描いてあるだけ。割と細密に。そんなのね、誰でもできるの。時間かければ。超絶技巧どすえ? そんな事ないよ。普通に写実画家らの絵を色々みてみたらどう? レオナルドを過剰評価してるお前らは、要は東大卒ならなにやっても賢いと思い込んでるみたいなもんだ。東大卒が馬鹿な事しても無理やり賢いとみなす。それを馬鹿というんだよ。読売巨人軍だから空振りでも強い事にするってか? 絵はそれ自体が実力なの。だから一目みたらどんな勲章つけようが無意味。レオナルドの生涯に描いた全ての絵とね、『生々流転』を比べて、後者がヘタですと? 僕は全く、ひとかけらもそうは思わないけど。絵描きやってみたら? 一回。どっちが実現しがたいかなんてすぐわかるよ。レオナルドって別にそこまで構想力も思想の深度も半端ないって程ではないよ。大観のが凄いよ? 僕が、『生々流転』を名画だといっているわけではないから。単に長大な構想力をもった人が、大作を仕上げた例としていってんの。レオナルドなら『最後の晩餐』なんだろうが、あれが神作品とは僕は殆ど思わない。記念碑的だとは思うけど、彼の技法の集大成だったから。『生々流転』のが表現は深いですよ。結局こういう事。素人は見る目がない。美術史たんだか美術史ワンタンタンだかしらないけど、同人誌の素人がくだらねー同人誌ほめてるみたいなもんだわ。例えが微妙か。美術史の中でもコアなものもあれば、素人目にも人気みたいなのがあるわけ。そのコアをヘタだったといわれているとか素人批評すぎるよ。

 漫画アニメのカテゴリー内でも同じだからな。僕は『GOGOモンスター』は凄いと思ったが『ワンピース』は駄作だと思った。それって人気度なんて一切関係ないんだよ。漫画自体の質と。大衆が褒めている、売れているとか、すぐ消える。誰も憶えてない流行歌みたいなもんだ。本物だけが残るのね、最後は。売れてても凄いのもあるよ。ウォーホルとか。『ドラゴンボール』とか物凄かったよ、特に亀仙人の所で修行してからフリーザ編あたりまでね。
 大衆人気とか売上とかで、芸術を評価してはいけない。そうではなく、単に芸術自体の質を、時と場を超えた全く純粋な目で、忌憚なく評価できないといけない。美術史でいったら今は殆ど誰も知らない当時の芸大卒の画家の方がマネやモンドリアンより重要だったって描いてるだろ、リヒターが。ピロティやマカルトの方が、当時はより重要だった、サロンのゴミと。1989年9月21日のノートに。それが君ら東京人の誉めちぎってるゴミなわけです。大衆人気のゴミ。ま、とにかく漫画アニメの過半はゴミだって事、だって描いてる事が下品すぎるんだもん。将来の人類がさ、下品な過去の、みるのに時間かかる作品を一々みますか。そんな暇ないよ。聖書だって読むのに時間かかるのに。もっと上品なモノが沢山あるのに、過去のゴミ漁るなんてありえないんだ。同時代のゴミ。2chがいい例だ。あれだけ量産してただろ、君ら匿名卑怯者衆が。ゴミがゴミを量産してただろ。あれらを未来の人類が一々全部見直すと思う? 天地ひっくり返ってもないんじゃないだろうか。ウィキペディアだってみないと思う。それより遥かに情報価値低いんじゃないですか? 下品なだけの誹謗集って。

 食べ物で考える、物凄く美味なアンコウのどぶ汁があったとしよう。実際に美味しい。僕が実際に食べて言うんだから間違いない。東京人一般大衆がうまいうまいといってるゴムみたいな牛めし食べて、かつ、それと比べて圧倒的美味というんだから間違いない。しかしだ、美術もそれと一緒なの。質が違うの。君ら東京の一般大衆がうめーうめー、すげーすげーいってる漫画アニメ。僕からみるとひどく質が低い。だからがっかりしかしないし、うんざりしかしないし、かかわりたくないな、こんな下品なだけで頭の随分悪そうな人達って思う。所が君らが酷く下衆いからそれに気づかんのね、群れてゴム丼うめーって。本当に品質の圧倒的に高い物ってのがあり、かつ、魂の次元でもそうなの。精神性が圧倒的に高いっていう人がいて、その人が画家で十分に技法があれば、或るすばらしい表現を残しているだろうよ。所が、君ら東京人大衆はゲスいもんだから。もうどうしようもなく下賎な同人誌に腐るほどカネ貢いでるわけ。じゃあもう違う人達だよね、仲間になれないね。一緒の国とか言ってるけど別のうからであって、別のくらしをしましょうね、ってなる。当たり前ではないでしょうか。だって気が合わない、馬が合わない。ノリが違う。こっちからしたら野蛮人にしかみえないんだもの。会田誠の絵すげーすげーってなによ? 会田誠を天才だという、ネタだという。それを東京都現代美術館? だかどっかでやる。それ面白いと本気で思ってるの? 単に下品自慢じゃないですか、それ。水戸芸術館でそんな企画した事あるんですか? 品位にもとるにも程があると思いますよ。東京。そんな事してるから漫画アニメだらけになるんだよ。