2020年8月19日

18才の自伝 第二十二章 美術教育の批評的構造論

『18才の自伝 第二十一章 あの朝の池袋』の続き)

 さていよいよ本格的に絵を描き始める修行期に入る。いわば漫画原作『ドラゴンボール』でいえば少年期の悟空とクリリンが亀仙人のもと厳しい研鑽を積む日々(で天下一武道会に行かされるが、ここでは芸大入試だろう)、ドラゴンクエストシリーズならレベル10とかで最初のダンジョンのボスで一遍死に、又出直しという段階にあたる――といえばあたるが、この最初のダンジョンに選んでるのがある意味ではオモテ面のラスボス城だったのでたちが悪い。最初からギガンテス級のは出てくる。こっちはひのきのぼうしか持ってないのに。
「どうのつるぎ」位なら持ってんじゃないか、といえなくもないが、高校の時を徒手空拳時代とすると、それを手にするのはドバタで修行初めてしばらく位の感じなのかもしれぬ。いづれにしても、こちらは美術史についての知識も高校図書室の美術全集網羅的にみた高校生程度しかないし、アートファンに近い。尤もこの1年かけて、いうまでもないが成長期にあたるので急激に美術関連(実践・理論両面で)の知識水準もあがり、最終的に講師陣或いは一般的芸大生がランファンにしか見えない位以上には行ったと思う。僕がどういう心理過程で自己研鑽して行ったか今後の記述みればそれは自伝全体で一目瞭然であろう。「ランファンにしか見えない(『ドラゴンボール』読んだ人にしかわからない)」のが是か非かを思案させるのは僕にしては下らないジョークであり、要は、実力がないのにこけおどしで生きてるという状態を形容しているのである。巧みに。なお卑猥に。卑猥さの必要ない箇所だろうから完全にミスしているが。
 その僕(そもそもお下劣な話が好きではない大紳士)にしては珍しいミス、でもなくて、修正できるのにわざと修正してないんだから、いわば文芸手法でいう「意識の流れ」で、なかば偶然できた筆の跡を敢えて残して、偶然味を出してるんだけれども。この直後に書く予定の部分が高度なので一旦落とした。

 先ずこの自伝全体で、ある人(18才の自分)をしばしば一人称で、しばしば三人称で、僕が『荒野行動』やるときたまに(メインストリートのモードとかで)FPSボタンをおして、敵がより大きく見える目線にしてやるみたいなもんで、ある種、主人公をとりまく冒険活劇を通じての美術論、美術教育論が語られる。

 そんでそれは学術的に明らかな深みをもっているので、読者諸氏が最終章に辿り着くまでに、一体どんな山あり谷ありだったかは憶えているものの、却って結論が分かりづらくなるばあいもある。よって、最初に結論を書いておいて、まるで富士山の頂上みたいに。そこに辿り着くまでどう試行錯誤しつつ辿ったかを、こっちの山あいに入りましたとか、谷に落ちました(まぁ大変、どんぐりころころどんぐりこ、お池にはまってさぁ大変)とか、おにぎりをですね、崖からころりんころりん配信者みたいに転げおちさせてしまいましたとか(冗談になりえないニコ動の闇)、要は、定点観測的に、獣道(トレイル)の部分部分でカメラを主人公視点や各キャラや神視点にきりかえつつ、みていく事にしよう――かな? と、さきほど感じた時間帯は、大分疲れた様な顔つきの僕が早朝起きすぐシャワーを浴び(ほうれい線ほうれい線)、冷蔵庫から事前に房の部分だけビニール袋で縛る工夫してあったバナナをとりだし、皮とってそれをセブンイレブンの茶ビニール袋(話題の。モ○ケンがほしいやつ。モケケンじゃないよ。毎回。かめさんののどにつまらせる為にほしいやつ。拙戯曲『かめさんはなぜ泣いているの?』参照)に入れゴミ箱に捨ててから、お皿に2つバナナを置いてね、フォークでさっきそれを食べまして。そこ辺りでどうのつるぎ、とか書いていたのである。凄いでしょ。なにが。
 要するに、最初に結論書いたらわかりやすいんじゃねーのかと。誰も読んでねーが。全部。イバライガーじゃねーが。秋田の。いぶりがっこじゃねーが。秋田のご当地ヒーローの名前忘れたので。いぶりがっこ書く。悪い子はいねーが。というね、ナマハゲのことばがあるんです。それに近いから。関東弁つーか関東語というか。東言葉あづまことばのね、僕のね、の発語というか。地元というか首都圏で。よくつかうね、じゃネーかっていうナイをネーっていう。その発語が。同じでしょ。佐竹さんが秋田いったんだもん茨城こと常陸ひたちからさ。そんなのどうでもいい、って事もない。意識の流れとかどうでもいいでしょ、一般人に。でもこれも文芸なのでね。色んな技法つかうんだ。僕は。
 無意識を自動筆記で書いてみます? 書けば。どうでもいいだろうけど。思ったこと書けば。思ってすらない事を。書けるもんなら。いつも書いてるけど。それでだ、結論といえばいえなくもない、「芸大入試とは何か」、芸大入試論のまとめから入ろう。敢えて。それがいい構成になるかは未知数だが多分、そっちのがいいんじゃないかとの直感に基づいて。キッチンで。ステンレスのシンクの前でバナナんバナナんバナナンナン(↑)をね、皮からとりだしつつの。


 結論から書くと、芸大入試は根本的には運により合否決定するおみくじである。これが1年の総合的結論なんであって、はぁ? 馬鹿じゃねーのと思われるだろうが、落ち着いて考えたら誰でも分かるのでこれから説明する。短く、しかも論理的に最短距離で。だが詳細を知りたければ全編読めばいい。本当だ。
 先ず絵の評価ってのは主観である。これも議論百出するかと思いきや現実にそうなんですね。客観的には絵ってのは、ここでいえば油画だが、油絵の具の可視光線域に対する光の反射率を調整して画布にぬりつけてある物体。これモノとしてはどれも同じ特性なので大差ない。だが何かを主観で読み込む。主観はある平面状(精密には板状の三次元空間)の物体に於ける、ある反射率のものを、それ以外の反射率のものと比べてのみ、イイネとかダメネとかいう。即ち物体になんらかの主観をあてはめているわけだ。もしヒトがいない宇宙があってそこにこの複数の油絵置いてあろうが、評価主体がいなければ無価値。
 よって主観が価値基準を作っている、あるいは価値判定しているとこれで論証された。
 ところで絵の価値判定には過去から現在まで色々な基準があって、それはそうだろう、主観など人それぞれなのだから共通基準を作るのが難しい。ゆえに流儀(スタイル、様式)とか主義などまとまった価値基準を作る。例えば写実主義(モノを本物そっくりに描く流儀)からみたら抽象画はダメネだが、逆に抽象表現主義(いわば画面一杯に好きに絵の具を塗りたくる流儀)からみたら写実画はダメネとなり、各流儀は往々にして分立した価値基準を持っている。一部がかぶる事も希にあるが基本的にはないといっていいだろう。依頼主のようある価値基準の持ち主にあわせた絵を注文制作する様な場合に限っては、イイネとダメネの間に、一定の価値基準を固定できるかもしれない。その依頼主の好みが当人の中で揺らいでいるとますます複雑になってきて、ある日はイイネといいある日はダメネと気分で変わるので、流儀を確定できない。しかし流儀を全く指定されていないばあい、つまり好きに描いていいですよ、といった条件のばあい、この価値基準は第一に、絵を描く側(絵描き、画家)自身が持っていなければならない。さもないと、なにに向かって完成させていいか、どこまで描けば十分で、いつ筆を置けばよいか分からないからだ。
 こういった主観による、絵の評価基準(価値基準)の体系的研究をしているのが、本来の美術史である。そしてこの際の具体的な価値基準は、英語でaestheticsという。
 この語源にあたるギリシア語 αἰσθητικός(αἴσθησῐς (aísthēsis, "perception, sensation") +‎ -ῐκός (-ikós, "pertaining to"))の原義では「感覚に関する事」だが、日本語では美学、審美学(森鴎外による多用があったとの指摘がある)などと意訳されている。
(森鴎外による「審美学」多用の出典、小学館『精選版 日本国語大辞典』

 一方イマニュエル・カントが指摘した「美の学というものは存在しないし、存在し得るものでもない」(『判断力批判』261節)との論点がある。一応、カントは大衆が前提とするだろう共通感覚(みんなに通じる同じ感覚)なる概念も想定したものの、いわば芸術の評価基準は上記でいう「感覚に関する事」でしかなく、一般には各主観にとって、或る作品をどう感じるか千差万別である。岡本太郎の芸術論(『今日の芸術』など)が典型例だが、「感覚に関する事」は美術史による体系的認識によって審美学的に判定されない、日常語でいえば「考えるな、感じろ」(『燃えよドラゴン』ブルース・リーのせりふ)だ、と岡本らはいうのである。
 つまるところ、絵の評価には、各主観による「感覚論」の側面が、望むと望まざるとに関わらず、多かれ少なかれ入っているといえなくもない。よって、aestheticsはギリシア語αἰσθητικόςと同様、本義に基づけば、おもに「感覚論」と訳されるのが適切だと私はいう。
 以上の議論をまとめると、ある絵について価値基準の判定には、

1.美術史による様式その他の体系的認識(これは写実主義だね、抽象表現主義だねといった学問的分類)

と、

2.感覚論(綺麗! うわーすごい。なにこれつまんない。ひどいな。といった理知的な学に基づかない感覚や感情が先立つ判定)

の2つの側面が、大まかにある事になる。美術史学と感覚論。しかしである。この両者は、今日までの美術教育および国内美術界で殆ど見分けられていない。森鴎外「審美学」との曖昧意訳語による、永きにわたる業界混乱の影響も背後にはあるが、それ以前に、そもそも芸大の油画教授らは美術史学者ではない。美術史を専攻、または(特定の時代や流派だけでなく)満遍なく扱う研究者は別におり、油画教授は通常なんらかの絵描きである。そうすると、油画教授による絵の価値判定基準は、どちらかというなら感覚論が主になる。
(厳密にいうと、優れた美術史学者を兼ねた画家がいればこそ、過去にない前衛的様式に到達しうるのだから、美術史学と感覚論を高度に兼ね備えた例外も存在しうるが、その種の人物が偶々芸大油画教授の地位に就いているとは限らないし、少なくとも自分は油画科ができる以前の創始者・岡倉天心を除いて一人も、その種の芸大油画教授を知らない。さらには、美術史学の専門家が必ずしも過去にない様式を正しく創造的に評価できる、即ち美術批評に新潮流を形成できるとは限らないので、美術史学的な評価は通常、過去のいづれかの流派へ還元的に分類する、古典に照らした保守的権威づけになるだけだろう)
 したがってこういう結論に辿り着く。芸大入試の合否判定方式は、学生らの描いた絵をずらーっと並べ、芸大教授がその前を歩いていって、各作品を0.1秒から5秒くらいでみて、棒をもっていてこれ、これ、といって(物凄く上から目線で)して、さされた絵に印をつけて合格となるのだが(ここでは一次の例だが、二次の場合も作品数がへってるだけで基本的には同じ、教授による主観的判定方式といえる。なお棒などのディテールは変わっても基本的に実技の判定は目視なので、カタチとしては将来も似た方式をとるかぎり根本で類似だろう)、大体、数千人以上の受験者がくして1年の努力を一瞬で無碍にされ死んでしまう。血のにじむ努力をし、結局は(岡本太郎的な)感覚論でぶった斬りかよ、ご愁傷様、となるが、本当にそうなのだから仕方がない。命懸けで描いたのに、一瞬で大量死した絵は、ごみ扱いで、画家の魂ごとさっさと燃やされる。同時にそこでは各油画教授の好みの流儀というものがあって、その流儀に媚びを売っていれば合格率が上がる(だって教授が好きなタイプの絵だもの)という裏技が当然の様に想定できる。原則としてこれをインサイダー(内部者)情報的につきつめているのが、大手美術予備校の舞台裏だ。カンニングである。どんな課題が出るかも大手美術予備校ではある程度予想しているのだが、これもやはり内部者が予備校講師をしているからといって過言ではない。芸大生、芸大院生がバイトにしては恐ろしく高い給与(といっても時給5千円とかだろうけど)を予備校に貰えるのは、芸大内部通牒者として厚遇されているからだ。
 2020年現在でも、芸大油画合格者の約半数がドバタ油画科から出ている(但しその過半数が現役でない。つまり僕らがされた様な、特定の油画教授好みの受験絵画に丸1年以上かけ改造済み。16章の画像参照)。統計的にみて明らかすぎる異常な偏りがあるのは、上記の内部通牒ゲーム(株なら違法なんだろうが、インサイダー取引)の類を、芸大受験業界で、大手美術予備校、特にドバタなる学校法人が、いわば芸大の内部体制と癒着しつつ、公然と極めているからといえるだろう。芸大生講師にも一石二鳥の大利権だ。芸大の内部では、特に徒弟的な少人数教育(指導)になる院生にあたるのだろうが、特定の教授と親しむ機会がふえる。飲み会などで語り合ったり教授の家にお邪魔してご家族ともしりあいなど、私的つきあいまである事もある。そうすると院生情報は或る教授の感覚論を詳しく微細に知悉するのに不可欠となる。こうやってドバタ、そして芸大油画科に関する限り大抵これに継ぐ合格率をもつ新美(新宿美術学院、カオスラ黒瀬氏とパワハラ被害者・安西氏らの嘗ての根城だったろう場所。この自伝内でもあとでちらっと出てくるかもしれないが、自分もアトリエ内まで行った事がある)のビジネスモデルが完成する。端的に言うと、ドバタまたは新美から芸大油画科に入った学生を、古巣にあたる予備校側が高いバイト代で講師として雇い自校に縛りつけておけば、最低でも芸大院生になった段階(5年目以降)で重要な内部者情報を自然に手に入れる事ができる。この癒着関係が決定的に働くので、異常に合格率が偏るのだ。

 僕がこれらの(一般的な経済社会としてはいかがなものかといわざるをえない、芸大美大と美術予備校の間にある)経営学的しくみを言語化したのは今回が初めてだが、それというのも、教養主義者の類は、美術界のうち画家には先ずいない。僕以外みた事がないので、大抵の人々は感覚論に凝って一生を終える。一体何が悪いの? 悪い事なの? いや不正なのそれ? みんなやってるしいいんじゃね? てか芸大入れば勝ち組じゃん? (同じ絵に一日にして評価を180度変えて)やっぱ芸大は違うなあ、とか。彼らは勲章つけたサル状態で、思慮を一切使わず、美術教育界の構造的分析も学術的考察も怠っているのだ。僕が書いたのははじめてといったが、実際には、日本に於ける、特に東京圏に於ける、美大芸大・美術予備校界の経営学的構造をこうしてはっきり言語化したのは僕が全人類ではじめてだろうと思う。なぜなら暗箱(ブラックボックスが今日政治的に不正ならダークボックス)化、企業秘密化していたのである。僕が暴露してしまったもんだから、今後、芸大美大・美術予備校界は、この自伝を読んだ有志による激動と革命の時代を経て、今まで通りその下なく汚い癒着関係を維持できなくもなるだろうし、裕福な家庭の子女あるいはかつかつの家計で無理をしている家庭の子女にさえも、見境なく取りき、しぼれるだけ(予備校内画材店で)高級画材代を搾り取ってきた、かの悪行へも遂に、疑いの目が向けられはじめるだろう。

 なぜ僕がこの自伝を書き始めたかに遡るといい(一章)。Aによる僕への侮辱だ。芸大卒の肩書きWW(ブイブイブイブイ、いわせすぎ)系虚無主義者の類が、というか虚勢のお下品猥褻漫画屋もどきの類が、この誇り高きモラリストかつガチ系内部者を見境なく侮辱してしまったもんだから、あーあ。これ。触らぬ神に祟りなしの逆だわ。式に。祟りじゃ、祟りじゃ。シシガミ様のお怒りの祟りじゃ。みなの衆、ほれ、ひれ伏せ。ひれふすのじゃ~式にね。もうこれお前のちゃぶ台ひっくり返してやるよって事。素で。

 新渡戸の武士道にはこう書いてある「侮辱には死を以て報いるべし」と。お侍さんのね、お子さんに。昔はそう教えてたんじゃないですか。僕は最低でも2代前まで公務員なんだから時が時なら侍の子みたいなもんだろ。それが侮辱されてんだ。刀はないが、筆はある。筆誅ならぬ正義のキーボード誅でしょ。なにも戦国期じゃないから。ある意味では戦国期なのかもしれないけどさ。文化の。下克上の一大演劇意図して出発してるからね、僕も。自伝全部読めば当然わかる話だよ。なにも命奪うまでしないけれどもさ、昔じゃないから。でもせめて敵は打倒するよ。文化的次元でだけど。その為に書き始めてんだ。これ。Aが寿命で死ぬべ。そのあとにでもね、誰かが僕のこの自伝とね、Aの浪人小説読み比べるに違いない。100年後とかにな。芥川の『後世』じゃないが。その時にね、ああ~なるほどと。なるに決まってるよ。平成から令和初期ってこんなだったのねえって。僕はその為に書いてんだ今。
 この章では本文というか本編にもどれなかった。本編部分も書いてもいいが、少しは書いとくか。


 僕らはあの西武池袋線に乗っていた。そして僕の記憶が正しければZがさっさと一駅なので「じゃ、またねー?(↑)」と語尾を上げながら椎名町駅で降りたと思う。
 残ったのは僕とTだけ。Oは親戚の家に居候させてもらっていた。それで僕の知らないルートでどっかに帰っていたのだ。神奈川の方面だったかもしれない。
 恐らく始発かその次くらいな上に都心から離れる方面への電車だから、あの毎朝超混雑の池袋線も、少しは空いている。
 僕とTは車内にとりのこされ、はぁ~とかTがため息風にいい、僕が眺めていると、Tはその視線が視界に入っているのに気づかないふりを一定時間後にやめ「あ(気づかれた)」とかいう、謎のパターンをした。そして謎に笑いをこらえきれない風にどちらかが軽く笑いだす。これは実際に演技しないと現実感がわからないけども、なぜか常套化し、少なくとも僕とTの間では5億回(さもなければ1万6541回くらい。出た美術業界名物、無根拠の「感覚論」)は繰り返された仕草なのだが、この時あたりに開始されたのかもしれない。とかく車内で軽く関東風でもないお笑い(なおTは関西か北陸かわかりづらい福井人だった)的雰囲気が現出された。そして何駅かすぎると、この時点でも前日からの経緯で決して元気溌剌ハツラツというより薄ぼんやりと脳にもやがかかった位の感じだが、ガタンゴトンどころか地下入る区間があるのでゴーといい、どう考えてもフルカワミキの歌声よりでかいだろ、と今でも思うが(ぼーっとして)練馬親父の練馬駅を過ぎ保谷に着いた。そして、駅を北側へ降りると、「んじゃ」「じゃーね」とか交互にいい、Tは右手へ、僕は正面へというルートを、あのきのうだか保谷で最初に偶然会った床屋の前か、それ以前の写真屋(まだあった)のところで、二手に分かれた。と思う。
 これで僕らは結構15分から10分とかかかる道を辿って下宿に着く。その日は。

(続き『18才の自伝 第二十三章 はじまりの朝』