では本文に入るが、その前になぜ僕が1年間、東京都の池袋という町にある、すいどーばた美術学院なる美術予備校(形式的には専修学校らしい)にいる事になったのか、その経緯から知る必要があるだろう。さもないと、僕がそこでどんな意欲でどんな世界をみていたのか他人に想像もつかないだろうからだ。
この伝文では自分の18歳時点での出来事をなるだけ真実性を伴って書くので、他の年齢での出来事はその補助要素として書くに留める。第一にそうしないと記述が膨大になりすぎるし、読者の主たる興味から逸れる事にもなるだろう。必要なのは画学生のうち、反権威主義の魂が辿る運命を完全に描ききる事だ。
Aの浪人小説はモギケンの感想文、批評性を伴うレビューってより感想文に過ぎないと感じたが、それみる限り凡そ完全にアカデミズムの正当化が落ちだと思う。未だ読んでないしいづれ図書館でしか読まないけど。なぜならAは芸大に入れた、入ったからだし、その箔でVVWWいわせてきているからだ。もしAから芸大の箔とったら、多分誰にも相手にされないと思う。よくいる気狂いにしかみえず、漫画としても中途半端だし、絵自体も権威性を帯びる事ができる部類ではなんらない。いわゆるエログロナンセンス、または最大限、善解釈しても典型的キッチュである。多分、サブカル芸人扱いで終わった筈だ。よって権威主義の恩恵を死ぬほど受けてきているという意味では、毎度適当感想文のモギケンと相似の地位なので、或る意味で両者は馬があうのだろうと思う。そういうレビュー動画でした。しかも僕の目に滑稽なのは彼らは自分らがその高下駄踊りしてきている自覚がない。或る意味で天然権威主義者だろう。
「東大芸大のド偉い俺。こんなお馬鹿なこともしちゃうんだぜぇ、どうだい、ワイルドだろお」式の、二重に権威主義的、脱権威風に権威ソースかけた悪い意味で濃厚すぎる卑怯なコラボ技というべき肩書き馬鹿仕草。僕は毎度そういうのみるたびにやだやだ、と思って半径天王星レベルまで近づかないけど。例えば村上隆は政府に呼ばれて話した資料内では、英語圏で博士の肩書きは絶大な信頼性シグナルになって大いに有利だったとかなんとか言っているのだが、国内向けでは全くその逆に肩書き無意味論をいう二重基準を使う。どういう事かというと、これも都合よく民衆を騙し自分だけ権威を使う仕草、である。
僕はこういう果てしなく汚い業界構造を、18歳始めの約半年で、つぶさに直接みる事になった。そのとき自分はまだ福島浜通りの中小都市から出てきた高校生で世間を一切知らず、進学校出なりに事の意味を関知していったが、都内で作られている意識高い系業界ゲーム全体に、なんともいえない嫌悪を感じた。意識高い系との語彙の意味は様々に揺らいでいると思うが、ここでは「知性主義の意味がわかる知的程度」という文脈だ。つまりは業界ゲーム構造を、学術言語でも抽出できる層。僕とか高校の頃の成績は小説読んでばかりで全く勉強してなかったのに早慶A判定でてたので地頭はそこまでバカではないと思う。そういう、教養文化的な言説をなんとなくではなくて緻密に分かるくらいの高校生が、現実に都内の業界ゲームを目の当たりにすると、当然第一印象は最悪になる。権威主義そのものの馬乗り合戦がその全面で営まれているからだ。一言でいうと野蛮な世界。普通より知性的なら直ぐそんな場を出ると思うのだ。
残念な事に、これから描く具体的素描で、18歳の僕がその脱出劇までに1年を要したのは、いわば地獄めぐりの旅をさせられた様なものだった。イギリス風にいえばグランドツアーの、どちらかといえば負の代物。18歳に期待できる精神年齢と判断力ではその時間が限界だった。1年も留まってしまったのだ。
かわいい子には旅をさせろ式の貴種流離譚。その画学生版なんて物を僕は読んだ事がないし、今後も人類がこれに優って面白く書くかは不明なので、現時点では極めて独創的な着想に基づく、一つの文書になるであろう。全体を読み終わって読者は、慨嘆するだろう。なんて恐ろしい目にあったんでしょうって。
僕の子供の頃は別の場所で書くのでこの18歳自伝に詳述はしないけれども、少なくとも第三者の目には可愛げのあるめがねっことして扱われていた節がある。当時の文集よむとわかるが大体小学4年くらいのとき姉のドラクエ4やりすぎて視力が落ち、授業中に黒板みえず慌ててめがねかけたら、皆に笑われたって逸話を自分で描いてある。多分その時の仕草がいかにも子供っぽかったのであろう。僕としては恥ずかしいのでその時点まで眼鏡かけたくなかったのだが。
それ以後、W君らの半分虐めっ子グループ(クラスのメイン集団)にいて自分もどっちかといえば手伝ってたがうんざりしお風呂でひとり自殺考えたり、中学でもテレビでみた米国学生風にガムかんでみたら教師が密室で体罰ふるってくるなど、小中学は自分には進度遅く過酷なばかりか地獄そのものであった。
ある時、学校からの帰り道のはまや書店の前にあったCD自販機で、15か16才くらい(多分中2だと思う)の自分はミスチル『ディスカバリー』というアルバムを偶然選んで買った。そこに入っていた曲のうち、『ニシエヒガシエ』が、大体その頃の気分をうつしている。要は硬直的学校制度に完全鬱屈していた。この曲は自分と同世代の人達はかなり聴いていたらしく、のち同じ高校の緑川君や団長(美術部にいた、応援団長S君)らが文化祭時に演奏していた。僕は親友(O君)らとカラオケで毎回歌いまくっていたので、その演奏後、緑川君の歌を聴いたO君が多分僕を意味し「もっと歌えるんじゃないか」といった。要するに緑川君は緊張してたのかそれ以外か知らんけども、歌としては微妙な水準だったのに比べ、16か17才(高2くらい)の僕がカラオケでは全身全霊で歌いきっており、それというのも当時の自分は疾風怒濤もありもうこの凝り固まった社会制度に絶望しきっていたので、鬱屈の捌け口にしていたのだった。
同じ美術部で親友のO君とは、高校合格発表の時に最初に会った。なんか僕が行ったのは磐城高校なる所だったのだが、同じ中学から行った合格発表時はそっちのが親しかった友達の隣に佇んでいたO君へ、僕と小学から同じだったD君(イニシャルかぶるからずらした)が狂喜し、ちょっかいだしたのだった。僕は中3で塾に行ったので(D君らが行くというので、友達だから着いて行った気がする)のでそれなりに勉強したものの高校受験時にできていたか余り自信がなく、浪人してやり直したいなと思っていたのに(漱石『落第』の逆に)合格してしまったので嬉しくもなく、どことなく不安だったのだが、発狂したD君が隣にいた知り合いでもないO君も合格したというのをみて、なぜか調子にのってハイタッチだかオカマっぽいキャーみたいな絡みを今でいうウェーイ系みたくやりだし、そこからO君とはしりあいになったわけだが、僕らは北茨城だったがO君はすぐ隣の福島のたびと町で電車通学路がかぶっていた。
大体、思春期の自分は、内面は、よくある話ほぼ完全に反抗的な人間だったと思う。といっても、自分はうまれて最初から今まで優等生のタイプで、余り逸脱行動はしない。学校制度が頭固くて馬鹿みたいだな、こんなの国畜ロボット再生産装置なんだろうなと気づいていたので授業中に自学自習してただけ。
僕は小中学も進度が遅すぎて授業はそこまで真剣に聴いてなかった。それでも100点か95点以上とか出ちゃうので僕にはヌルゲーすぎた為、なにしてたかというと実は授業中空想していた。誰にも言った事がないが。どういうのをかというと、勝手に物語考え、英雄が敵と戦って倒すみたいな少年漫画的なのだ。
が。高校は自由度が高い校風だったので、というか生徒をほっといてもらえるので、僕は興味ない授業を全て無視し、教科書の裏に小説を隠しそれをひたすら読み続けていた。希にクラスメイトが持ってきた漫画も読んだけどカイジとか。殆どは僕が読みたいと思った小説。具体的には春樹を全作網羅していた。
この話の後で19くらいの頃に目覚めて科学もやりだしたが、16才当時の自分は、高校の大学受験前提にした退屈な授業が唯の詰め込みにみえたし、一切興味をもてなかった。教科書や参考書読んで学ぶだけなら自学自習で十分かと思う。分からない部分を教師に聴ける利点を感じたのは数学くらいだと感じた。
姉が美大行ったので、その大学見学なども着いていった自分にして、最初の美術の授業で手のデッサンを描かされた。そのときに直感した。何回も書いてるけどこれは。絵が自分の一生の仕事だと、一生やれるなと。最初は中学の時ソフトテニス部だった延長でテニス部だったんだが、放課後に美術室行った。そしてこの作品集(ブログ)に写真残ってるけど、祖父の頃から使ってる油絵の画材で、F8だか10だかのサイズの画布に自画像を描いた。これを描いてる時に僕が感じていたのは、非常に切迫した思いで、実際、その頃の自分は学校の無意味さに絶望していて、これ描き終わったら自殺しようと思っていたのだ。教条的な偏差値教育でどこかの大学いれられてもこの下らない偏執狂じみた国家制度を再生産させられるだけ。したがって輪廻から解脱するには死あるのみ。その前に何か残すものがあるなら自画像かなって感じ。
けれども描いてみてわかったのは、どうも自分にはこの分野でやるべき使命があると感じた。祖父が使ってて父も使った年季入った先の丸まった筆で、ぼかし筆みたいポンポンと肌に七色を塗る。それ以外ならペインティングナイフで描いたと思う。その過程で、なにかこの色つき絵の具を具体的に再構成する作業には無限の可塑性があって、自分はそこに魂を生かす余地があるという感覚を受けていた。どういう事か?
油絵は絵の具を画布に載せる作業があるのだが、その部分には選択の余地がほぼ無限にある。溶き油で薄くしてもいいし直接厚くのせてもいいし、それらをどう変形させようが混ぜようが自由である。自由。僕は自由さの具体的あり方をその絵を描く作業で、生まれて初めて感得したのだった。それまで自分を縛りつけていたのは完全な不自由、拘束条件であった。
天皇が君臨する国造り。公務員の教員や親から言われる、義務と彼らが呼ぶ型にはまった一生の手順。千代に八千代に奴隷制。天皇陛下万歳、皇室弥栄。何一つとして面白くない。それなら機械にやらせろと思うが僕がやらされていたのだ。
この絵を描く作業には極限に近い自由度がある。したがって僕は画家になる事を決意した。15才の後半の、磐高の美術室で。画布の前で。ヘーゲルじゃないが自由の最大化が世界史の目的であれば、高校入学時に偶々、音楽か美術かの科目選択で美術を選んだので、自由度が高い美術の道に行った。
この時、同級生の緑川君こと、のちに0000というアートグループを作って美術手帳の裏表紙に出たり、村上隆とGEISAIで絡んでたりした緑川雄太郎君は高3まで同じクラスではなかったが、音楽を選択してたのだろうと思う。それでのち共通の友人から案内され、高校の近所な彼の部屋行くまで接点なかった。接点といっても高3の時の緑川氏は人を寄せつけない感じで、席は名前順で決まり、僕はクラスの後ろのほうの席だったのだが緑川君は前のほうの席だったので話す機会も特になかった。どっちかというと、緑川君は余りに協調性がないのでクラス全体から浮いている感じ、僕のがまだ友達と連帯していたと思う。自分は大人になってからやった簡易ビッグファイブの性格テストでも協調性は相当低いものの、緑川君は高校の時点でそれより遥かに協調性がない事は明白なので、グループ活動がいつの間にか解散したのも然るべきと思う。
いづれにしても、僕が美術部で先輩らから学び、階段の絵描く間も接点なかった。
高校2年の時は、僕の今までの全人生でも一番愉快だった時期かと思う。他の友達がどうだったか知らないけど。自由度が物凄く高かった。教員は放っておいてくれるし、友人らはよい意味でキチガイじみているというか個性溢れていた。毎日が劇場みたいですこぶる面白かった。それについては別作で書く。この高2辺りの作品は大部分秘蔵というか家に残ってるが、よくできたほうのデッサン以外は作品集にのっけていない。しかし毎日修行みたいに朝一の電車で美術室直行して、終電まで絵を描いていた。修行みたいというか僕にしてみると、ドラクエやドラゴンボールでいう、レベル上げの修行で楽しくやった。
でTM君に写真撮って~といって授業後に美術室に来る階段で自分を撮ってもらって、美術室前の階段の絵を描いたら、毎年あの美術部貰ってたけど僕が高3の時もなんか賞貰った。このときどっかの舞台までいって授賞式出たが、頭下げさせられたり面倒臭いと思ったのでこれ以後、何貰ってももう行かない。
じゃんけんで僕が勝っただか負けただかになってしまったので自分が部長やらされていたが、あの階段の絵(『Process』と題名したやつ、プロセスは「過程」の意味)を、各学校ぐるみでいわきの市美術展だかなんかに学生展示させられた時も、割と驚くべき事件が背後であった。のち18才の自分に影響を与える。多分良いほうの。
2001年
画布に油彩
162 × 130.3 cm
福島県立磐城高等学校蔵
2001年(平成13年) 第55回記念福島県総合美術展覧会 青少年美術奨励賞
(続き『18歳の自伝 第二章 受験絵画』)