2020年8月13日

18歳の自伝 序

Aなる絵描きがいる。同時代にいて、しかもツイッターにいるので、かなり前に一度ツイッター上で接した。
 しかし自分はこの絵描きを以前から余り好きではなかった。作風が下品だからである。一応長幼の序式に礼儀払ってこちらは丁重に接したんだが、相手から逆切れしてきて年齢差別的言動をされた。
 それでも僕は紳士なので別に怒るでもなく、寧ろ相手の方が肉体年齢では下の自分より精神的に子供っぽい、大人気ないのでこちらとしては内心呆れていたんだが、唯の美術批評してるだけだしちゃんと謝罪すべきではないですか、とわざわざ譲歩してあげたら一言二言お仕着せの返信され、ブロックされた。

 その時の詳細はブログに残してあるので辿ろうとすればできる。Aのある絵が日韓人を対照的に描いてるのだが、一方が北朝鮮の学生服(チマチョゴリ風の)を着てるので、北朝鮮の象徴とも解釈できるのではないか? と有体の解釈したら、上から目線でAが或る朝鮮人の革命家をあげつらいつつ絡んできた。僕としてはその絵が名作だとは全然思っておらず、というか正直に言えば下手な絵だな、格好悪いな、つまんないなと内心感じており、何か日韓戦の文脈でその絵をとりあげてた人がいたので「うーん、韓国の学生服じゃないし、どっちかといえば統一朝鮮の象徴じゃないの?」と当然の批評したわけである。どうその絵が下手でつまんないか? 先ず色が汚い。よごれた様な色味で、藤田嗣二らの戦争画風に描かれている。構図はよくある双対で、対照的な人物が国旗を持って向かい合っている。しかし旗は韓国旗なのに、着てる制服が北朝鮮のなんだから、統一朝鮮の象徴vs日帝・戦後日本の対比といえるじゃんと。
 意図は分からなくもないものの、みせ方が決してよくない。どうよくないかといえば、A特有の制服フェティシズムのロリコン文脈みたいな描かれ方で、どこか滑稽なわけである。そこで僕は言った、日本人の方は民族衣装じゃないのがおかしいと。伝統意匠の対立なら着物の方がふさわしいんじゃないかと。
 そしたらこのAの発狂である。余程都合が悪かったとみえ、上記のよう向こうからエゴサで絡んできて上から目線で不躾な差別的言動、誹謗をしてきて、そのうえ謝罪もせずブロック。まぁ最近芸大教授がパープルーム関係で似た事件起こしたがあれが芸大流儀だってのは僕も重々承知。パワハラ馬鹿の巣窟だ。

 その後、Aを観察してたら、小説を出した。上のは前置きで、今回書きたいのはこの小説の話。もっと正確にいうと、この小説をきっかけにした脱構築といおうか以前から構想していた自伝の事である。
 Aは芸大卒なんだがやはり予備校時代があって、僕も1年そうしていた。その頃の話なのだこの小説。

 因みにその小説を僕は未だ読んでない。今後読むかもわからない。第一にそのAは、はっきりいって余り重要な画家でない。よって他に名作は数多或る中、時間とカネを費やしてまで読んであげるのは酷であり、やんわりと放置してあげるのが最善だろうというのは事前に見てとれる。画家ごっこさせてあげて。

 ツイッターでは偶々同時代にいたので、偶然接してしまいました。しかしですね、私は好きでそのAの絵を批評したのではない。やむを得ず筆を執ったのである。その時の詳細からすると日韓対立の文脈だったからだ。
 僕はションさんという友人がSANAAでできてから、日韓対立を和らげる義務を感じている。

 私の風土は常陸国、今の茨城県であり、水戸学なるものがあり、かなりの期間、徳川家の統治していた地域である。今も複数の徳川家が水戸市辺りに本宅あらせられますけれども。要は彼らの御領地だった。少なくとも江戸時代以前から僕の母方はここいら北茨城に住んでいるので、歴史的な忠君は暗にある。
 その徳川家は義公の頃から朝鮮通信使を通じ、旧李氏朝鮮と平和外交を築いていた。君子の交わりで。当時のおもな学問分野だった共通の儒学を通じた知識階級同士で。
 しかし薩長土肥という西日本果ての勢力が出てきて状況が一変。急に侵略で暴れ込むや敗北、今みたく南北朝鮮が分裂する羽目になった。僕がSANAAでションさんとお知り合いになって大体半月もしないうちにお互いに分かりえたのは、そういう薩長土肥、いいかえれば明治政府流儀の野蛮な侵略時代はおろかなことでしたね。我々ひたち水戸人(今は北茨城人だけど)がやつら侵略蛮族を抑えればよかったですね。明治天皇も悪いんですって話。これは片言より相当巧い日本語も使えて、しかも英語でカリフォルニア工科大学に留学してる韓国生育だろうションさんと直接話し合ったわけではないが、私が「過去の事は申し訳ない」っていったら「みながあなたみたいならいいんだけど」、といわれたので、一瞬で済んだ共通の歴史認識である、と信じる。
 そこで握手求められたので、握手して別れた。僕は2級建築士とってからもう一度来たほうが独立するにあたっても安心だなと思っていたので数ヶ月、妹島さんにいわれたSANAAでの模型作りてつだってからせじまさんに「2級とったらまたきます」といって、今はなき天王洲アイルの倉庫2階事務所を去った。

 この後、僕は6回だか7回だか製図試験落とされたので、うまれながらの芸術家は設計が独特なので通れねーのかよって話なんだが、まだ妹島事務所で働くのを保留させられている。足止めというか。その部分については別の機会に書くというか、今回書こうとしている時期よりずっと後の話になってしまう。
 要はこの事が脳裏にあったので、ツイッターで僕が35だかの頃に、偶々日韓対立をあおる文脈でAの絵が目の前にもちだされて、黙って看過するにはいかなかった。そうすれば又同じ歴史の過ちがくり返されるからだ。僕は決意していた、次はどんな手段をとろうが、日韓戦争・日朝戦争を起こすやつは潰すと。
 今度は、徳川家と違って僕が相手である。鈴木家が。唯の鈴木家が相手。これはもう勝てる見込みがないといっても過言ではない。日本では1番目か2番目に多い。
 天皇がどう暴れようが。どう世襲のお馬鹿だろうが。朝鮮侵略や~とか公家の眉で叫んでようが、岩倉家と。全力で陰謀つぶしにいく。僕は。

 そこでツイッターをどれどれ、アホどものざれごとでもみてやっか、みたいに、でもないが、実は僕にとって興味深くかつ勉強になる話題ないかなって社会学的に眺めていたら。流れてきたわけである。Aの日韓・日朝戦風の戦争画が。それにネウヨじみたのがたかっており、今にも愛国万歳といいそうだった。ここもより精しく書くと、既に半ば匿名暴徒勢力がそういう文脈、つまりAさんは愛国者っすね? 韓国ザマア草、的ないかにもひろゆき系黎明期ネット文脈にその絵を置いていた、筈である。これだけ書けばなぜ僕が、したくもない批評をわざわざその場でせざるをえなかったか、理解できるだろうと思う。
 僕がいわんとしたのは、「日韓対立じゃなくて日朝対立であって、しかもこの朝鮮側って制服は北朝鮮、旗は韓国。旧李氏朝鮮の象徴みたいなもんで、日帝の侵略を戯画化してあるようなもんじゃん」と。が。Aはのち柳寛順をもちだしてきて発狂、歴史的批評言語レベルで自作を考えられてなかったのだろう。
 Aはこの直前に、自分は批評を前提に作っている云々といっていた。経済学に無知だから或る案件について教えてくれと書いていたので、ほかの誰も教えていなかったので僕がわざわざ嫌々ながら自分の知ってる範囲を教授したら逆切れしてきたり。Aの論理なり、人格的同一性には、全然首尾一貫性がない。
 Aは恐らくチマチョゴリ風制服は韓国普通の制服ではなくて北朝鮮側のそれだと知らずに韓国旗をもたせて韓国人学生のつもりで描いたのかもしれず、その自分の認識の誤りを認められず恥をかかされたと勘違い、どうせ誰かが指摘する部分をわざわざ解釈学的に正当化してあげていた僕を誹謗してきたのだろうかもしれない。寧ろそんなの、どう見ても自分の都合よく解釈してくれてるんだし、味方にしておくべきではないだろうか? そんな認知は前提にして僕としても国内画壇全体のパワーバランスみこして批評してんだから、要はみねうちにすらなってない。寧ろ試合以前に相手のすその乱れを直してあげたくらいのもんである。しかもだ? Aのその絵を、わざわざ日韓対立に矮小化しようとしていた或るツイッター民らしきのが発生させかねない浅薄な文脈を、よい意味で壟断してあげたのである。
「もっと深くみれるのにスポーツ応援式にみるのは、歴史画を今の安倍政治に利用してるだけ。但し制服フェチはA常套ネタな」って。

 ま、結局僕としては、日韓対立の緩和に回った。それは義務だ。僕としてはもう二度と、日韓日朝の間に悲惨な戦を起こさせない。その為には天皇だろうが旧華族だろうが国連だろうが知恵と勇気でいなしていく。それならAの浅はかな歴史画もどきごとき寸鉄人を刺す式に、一発で批評の刃で対立消滅に結ぶ。Aは僕の批評がポジショニングに与えた影響が間接的・直接的にあったかどうかはしらんが、愛国右派じみた、反韓文脈Jアートごっこを容易にとれず、あるいはとらず、前からAはオレはネトウヨ崩れだ~とかいっていたのに今みたく真逆の状態に置かれる様になっていった。某植物園でのコラボで炎上とか。Aがどうなろうと僕の責任ではない。なぜなら僕はある一枚の絵にできる解釈の一つを、公論として正統的にしたまでであって、高々作者にすぎないAがそれをどうもできないからである。作品は公にされた途端、既に公共の一部で、それへ数多の批評が及ぶのは避けられない。そのなかの一つが僕のだった。
 しいていえば、一人の画家として、まさに藤田嗣二じゃねーがおおやけのまつりごとに向かって芯の通った一本気がない、もっというと公事国事について深く考えてない人がですよ。筋も通さずあっちへこっちへふらふら、それは藤田化してもしょうがないのではないかと思う。戦争協力後の彼の一生みたいに。同時代に戦争協力してた画家なんて沢山いる。小磯良平も横山大観も。でも小磯はとかく現実を上品なタッチで描く写実画で首尾一貫してただけだろうし、大観に至っては彼の父の水戸学そのもので忠君愛国画の総本山である。藤田だけだろう、敗戦で叩かれたからって日本はもういいやって逃げちゃったのは。
 別に逃げてもいいじゃんと。いいですよ。皆逃げました、アメリカへ、パリから。ナチスの手逃れて。その後のフランスでの藤田の絵なにが悪いのと。
 上記と同時期にAは藤田の帰化先に行ってましたしね? 因みにわが県は藤田のアトリエある県と姉妹都市らしいですけど。画家の政治性も無視できない。藤田がなんでああして一時的に日帝側で戦争協力したか? あれは売名とまではいかないにしても日本でうけいれられなかったのに戦争画なら重用されたから、お国に御奉仕だみたいな、内心の転向があったといえるでしょうね。けど戦後それが罪扱いされるのでむかついて、やっぱり親戦勝国側へ再転向した。全く相似の観点をAについてもあてると、戦争画の真似事ネタ化して米軍あおったり、日韓・日朝対立あおったり、かなり児戯じみた物を現代アートで御座いとかいえてしまっていたのです。戦後昭和世代って。村上隆のキノコ雲風のタイムボカン絵とかランドセルもそうだけど。歴史観も作風も死ぬほど浅い。
 今みたいにKPOPが世界支配始める前だったし、韓国系アートなんてナムジュンパイクかリーウーファンくらいしか知られてなかったと思う。昭和世代に。最早、大衆芸能の世界では韓国勢のほうが国際的に影響を与えている。韓流は一過性ブームではなく、韓国文化の総体的な底力を示した物に違いない。そしてこの時代の流れに勝てず、Aは過去作を掘られて「これ日韓対立っすか?」式のネウヨ文脈に置かれかけていた。しかしそれ自体が彼には不都合なレッテルを意味した。安倍風の演説作とかもあったし、あいちトリエンナーレ2019で自分から表現自由戦士派で声あげてたし、ネット勢の天敵になりつつあったのだ。
 僕の文脈は、このAの政治思想的一貫性のないフラフラ文脈と又全然違うものだった。僕のそれは義公からつながる平和外交文脈であった。両者が偶然、2019年の或る時点でツイッターなる場で交差した。しかし批評の刃を論戦として交える前に、Aが自分から芸大教授式のパワハラ返信し逃亡する形になった。


 では本題にもどるが、このAの浪人小説、モギケンがユーチューブで批評してたので、それをみて、僕は「なんかなぁ」と感じた。「Aの作品知ってていってるのかな」
 ミュータント○子なる漫画がある。僕は18の時それを池袋ジュンク堂最上階でみて、よくこんな下品なの描いてて生きてられるなと思った。モギケンは、Aをさも現代美術の第一人者みたいな前提に置いている。実際にはそこまでいってないけど、少なくとも日本美術界の巨匠くらいの扱い方しているのだ。それは歴史的評価として間違っているのは間違いないので、「なんかなぁ」なのだ。「モギケンって毎度だけど、美術の部外者よなぁ」って。モギ氏は質感原理主義という、よくいえばハードコア、わるくいえば素人批評の独自理論を自サイトにのっけて、その点からアートファンとしてよく美術批評に参戦してくる。彼自身たまに漫画っぽい現代文人画の類をドードルしてるし、公開日記によると子供の頃、絵画教室に通っていた時期もあるとの事。
 僕としては別に質感主義だろうがそういう観点もあるとは思うが、いうまでもなく美術批評の言語なんて無数にありすぎるからその中の超マイナーな一つという位置づけだ。
 質感を否定する絵なんて色々あって、そもそも近代の抽象画家らは一般に絵の概念化を試み、筆触や厚盛りを基本的に消そうとしていた。実物の絵と、概念としての絵が違う。そういう場合もよくある。僕の経験上、一番その落差が激しかったのは春草『猫に烏』で、猫ちゃんも烏さんも等身大になっており、実物の上品度が凄かった。逆にその落差が殆どない平凡な筆捌きの小磯良平画とか、実物のほうがしょぼい上田薫の生卵絵みたいのもある。ゴッホ『ひまわり』は薄く気持ち悪い感じはするものの狂気がそこまで伝わってくる感じではなく、よく丁寧にインパストしてあるけど所詮素人画家あがりだしこんなもんかアだし、実物みない方が奇才と思うかも。カンディンスキーみたく体より大きな交響曲画描いてた人の場合は質感どころか体感差がある。

 いづれにしても、Aを評するモギケンの論調は、僕には同感できなかった。しかも、以前ツイッターで18の頃あった話をごく断片的に書いてたらなんか妊婦さんが暇かなんかでみてたらしく、まとめて自伝書いたら? 云々といわれたのを思い出した。
 だがそれは諸事情から大変な作業なので留保していた。なぜ大変か。先ず僕は太安万侶おおのやすまろ級の記憶力なのでディテールがありすぎ、本気で書いたら恐らく一冊500ページとかで数冊以上にわたる量になる。つまり大長編から長編くらいの規模。毎日書いたとして、大体1年くらいはかかるだろう。しかもそんなの僕の作品全般がそうだが先行ってるので売れる事はない。それで前回何かの機会で浪人生の頃の話を書いた時も、わざと断片化して、重要なできごとのうち、最も表面的で、かつ第三者にも回りくどい説明ぬきでわかりやすい一部を描出するに留めていたのだ。それ以外の仕方で、低言語知能かつ短文厨の集まりであるツイッター上に思い出書こうとも全然思えないし。
 更に最も重要な問題がある。それは僕の18の頃の経験は、確かにかきのこしたら人類史上でも一番、これは謙遜抜きで恐らく最も重要な劇になってしまう。ジョイスの青春小説やフランクリン自伝なんかを圧倒的にぬいて。事実は小説より奇なり、で、僕が実体験した事は生き残りゴッホ級の物語だからである。少なくとも僕は18の時、ガチで死にかけた。正確にいうと社会的に抹殺させられかけた。奇跡的に助かった。それは僕自身の精神力があったからとしかいえないだろうが、思い出すと恐ろしいし、なるだけ距離を置き、殊更深く触れるべきでない過去を、いわば傷ついたうずらの羽みたく眺める事しかできない。

 この或る序文みたいな部分を書き出したのは、「Aの浪人小説がさも、日本の画学生のデファクトスタンダードみたく文脈づけられてしまうのは、自分にも、恐らくほかの人達にも大いに心外だし、そもそも国内外の美術教育論的にも、単なる世間的にも、それで望ましい筈がないよなあ」と感じたからである。

(続き『18歳の自伝 第一章 18才以前』