2020年8月13日

18歳の自伝 第二章 受験絵画

『18歳の自伝 第一章 18才以前』の続き)

現時点で無名画家の伝記なんざもう誰も着いてこれてないかもしれないが、僕の予想では将来誰かがドラマ化する、又は、世界文学史のある重要な一角になると思うので、構わず続けよう。

 自分は優等生タイプだといった。実際、英語は単語帳みてたくらいでなぜか高3最初の時点で、さっきも書いたよう早慶とかA判定だった気がする。超適当にやってて。以前ブログのどこかに模試実物貼りつけたけど、それを高校の美術教師(磯上いそがみ先生)にみせたら「お前凄いじゃん」といわれた。僕は別に驚いてなかったというか、うぬぼれぬきで寸分も本気出さずそれくらいなのが自分のデフォルトの様な気がしていたので(つまり謙遜なしで)、僕がなぜその逸話を憶えているかというと、この磯上先生というのが当時の僕の師匠だったからである。お師匠さんに褒められるのは大変珍しかったわけだ。当然ながら僕よりIQが高い人とか無数にいる様に思うし、周りでは余りみた事がなかったにしても。医学部行く様な人達ってもっと真面目に学校の勉強をしていた。同じ美術部にたまにきてた東大いった友人とか、真面目に勉強し一浪で入ったのであって、僕は努力してないのに褒められるのが謎だったわけだ。磯上氏がなんであのとき僕を褒めたか? それは偶然みた自分の模試が、なぜか彼の想像を超えていたからだろうと思うわけである。ま、僕を軽視していたのであろう。しかしそれは僕が現実に人見知りであって、先生とろくに言葉もまじえないし、余程仲良くならないとおよそ自分から話もしないからだろう。初期設定でどんな遺伝子かとか、全く自慢にもならないし、重要なのはそれをどう伸ばしたか後天的な努力のほうにある。よって磯上氏はあの時そういう深い洞察なしに単純に感想いったんだろう。
 高3の最初のころ美術室行って僕らが話してたら模試おいてあってどれみせてみ、とかいってきた様な感じ。

 それで、僕は進路選択の時、美大行くことに決め、家の2階座椅子でテレビみてた父上のおんまえに馳せ参じるや畏まり、われは美大にいきとうございまする、と、いった風情で、水戸のお侍さんのおうちみたいな感じで真面目な風貌でそういったら、多少躊躇あったか忘れたがふーんみたいな感じであった。
 姉は以前ムサビとかタマビとか落ちて泣いていたんだが、父親が励ますどころか泣くんじゃないみたいな感じで逆に叱ってたのに、その後、東北芸術工科大うかっていたから現役で行った。その前提もあるので、僕は(日立二高の)姉より遥かに勉強できるほうだったので、余裕で入れるっしょと思われていた。
 父は慶応法学部を出ており、祖父は早大出の建築士なので、僕もその遺伝系統があるから大学くらい余裕ジャン、という感じの対応をその場でされたので、僕もそうなんだろうなきっとと思わされていた。家族みなそんな感じだった(祖父母まで全員大卒)。しかし全くそれと違う結果がくるのをこの17才の僕は一切悟っていなかった。

 美大芸大というのは全く部外者には知られていないけれども、学科試験が大変に軽視されている。特に芸大のほうは完全にそうで、学科をさいころ転がしマークしてうかったってやつが頻繁にいる。しかし17時点の僕はそういうヤクザな世界だと知らなかったので、磯上氏にも進路選択で美術コース行きますっていったら「やくざだぞ」と言われた。これは当時の僕には余りに言葉が省略されていたので一体なにいわれてるのかわからなかったのだが、孔子の文言みたいなもんで、いまだに含蓄のある言葉だ。確かにその後、約20年、美術業界をできるだけ隈なく観察してきていえるのは、磯上氏ののたまう通りであった。
 彼はやはり磐高から造形大いった人で、実作もいわき市立美術館でやったグループ展でみたんだがかなり質の高い現代美術家であった。マニアの僕が質が高いというんだから相当以上の代物だ。どういうのをみたかというと僕が高校生の時に発表してたのは、いわきの山奥の水溜りにありそうな草葉をメディウムで中サイズのキャンバスに固めて、その間にナムジュンパイクみたく小型テレビ画面を埋め込んで、映像を流してあるやつ。『アンダーカレント(底流)』という作で、特に題名に影響うけた。説明には、同名のビル・エバンスのアルバムにインスパイアされた云々と書いてあった。それで僕はいまだにあれ見たときの感じをおぼえてんだけれども、要は、磐高の美術部って僕のおじさんもいたってか部長だったらしいけど、世代を超えて繋がっていく、あの美術部辺にあるミームの表象の様に感じた。僕が階段の絵に英語でかっこつけてタイトルをふってあるのは、磯上氏のまねしたからである。高校へ講演会にきた科学者の先生が、人生の全体はプロセスであって完成したものではないといった。僕の場合、磯上氏の絵や先輩の絵を参考に、自分の求道的人生観の表現として階段絵を描いてそう題名した。
 とかく、この後、別の高校(多分湯本高校?)の先生にも不吉な事を言われた。授業後とかに教員室で磯上氏が一人で描いてた写実画(大変巧い)を僕がまねて描いた、ある逆さにした石膏像の絵をなにかの機会にみて、
「美大入るにはこういうのじゃいけないけど」
といった。当時は意味わからんかったが。
 ここで彼がいわんとしていたのは、いわば予備校絵画の事、受験絵画の事だった。
 磯上氏は当然そんなの知っているのに、高校生の僕らにその種の小手先の技巧を基本的に一切教えようとしなかった。これも今にしてみるとよくわかる。僕がもし美術教師になっていても、程あれやはりそうしたろう。

 磯上氏は、同じ高校から芸大行ったある先輩(名前忘れたけどのち、僕もすいどーばた美術学院こと「どばた」でその先輩に指導うけた)に、次の様な指導方法をとっていた。その先輩(仮にCさん)はリヒターのファンなので直接まねて、なに描いてもぼかそうとする。でもデッサンできなきゃ下手なだけだからきちんとデッサン教えていた。磯上氏の指導法はよくいえば長い目線、というか一生の画業を思いやる視点で、古今東西の美術玄人の立場から、ある個性をもつ生徒の作家人生を案じたもの。わるくいえば受験絵画でもなんでも芸大入れば一生安泰みたいなザ・日本的肩書き馬乗りゲームを、少しより軽く批判的に考証してあるものだった。
 少しより軽く、批判的に考証? この部分がわかりづらいだろうからより具体的に説明する。

 冒頭のAは、まだ読んでないけど(読まないかもしれないけど)浪人小説中で、受験絵画を覚えていく主人公を書いたと思われる。そしてその手順から得られる、日本独自権威の恩恵は最大限享受してきている。
 磯上氏はこの日本独自の、いわば大衆に向けた箔づけの効用を十分に知っていたろう。高校当時の僕は、今もだけど、権威という物を基本的に無だと思っており、いわばアインシュタインみたいなもんで完全に馬鹿にしていたが、世間はそうなっていない。寧ろ逆に、虚名こそが実力だと完全に信じ込んでいる。名実の落差、虚名と実力の乖離があった時、僕は当然のごとく実力に従うが、世人一般はこの逆で、ひたすら虚名に従う性格をしている。だから天才と凡人が分かれるともいえるが、凡人の目には芸大の肩書きは至高至上の実力の証に見える。でも僕は、高校生の時点ですら余りその点で騙されきってなかった。
 しかし磯上氏はこの二重基準を、深く批判的に考証していなかった。世間ってそんなもんだよ。こんな感じだ。だから芸大行きたいと生徒が言ったら「やくざだぞ」というくらいに留めて殊更、業界構造を説明もしないし、当人は都内で個展したり色々知っているにもかかわらずそんなもんだというのである。

 実は、アカデミズム(学園主義)とモダニズム(近代主義)の対立は、ボザールから黒田清輝がもちこんだ写実画即ち洋画と、岡倉天心流の日本画の分裂以前から、西洋圏で発生した二重基準としてあって、日本の美大芸大にはこの自己矛盾が更に独自進化した、ドロドロとした政争で埋め込まれていたのだ。
 ボザールとはフランスの国立芸大で、いわば美術界での全ての混乱の起源といってもいいだろう。ここで行われた擬似古典的な模倣アート教育が、黒田によって日本に伝わった。
 それだけならまだ生易しいが、戦後は米国化が進み、単純な擬似古典を美の規範としなくなった。一層混乱した芸大構造ができた。

 例えばモギケンは芸大の先端芸術表現科という、主にインスタレーション(仮設美術)とか、古きよき純粋美術(絵、彫刻等)的でない応用やる人達の集まりで教えていた事があるのだが、彼は芸大受験の構造を一切知らずに東大・ケンブリッジ大経てるだけなので講演などで全く間違った芸大受験観を語る。モギケンの絵画教育観は小学生の絵画教室時点で止まっており、デッサン悪玉論という、はっきりいって古の段階のそれでしかない。戦前の一時期、そういう芸大入試イコール石膏デッサンなる時代があったらしいが、少なくとも既に完全にその状態ではない。いわゆる古典的デッサン教育は全く破綻している。僕はツイッター上でモギケンに直接返信し、彼の小学生級の絵画受験観を正そうと試みたが一度も成功しなかった。僕からの返信集を一切読んでないか、読んでても理解してないか、理解しようとしてないか、理解しててもがえんじてないか、いづれかだ。
 とかくモギケンの絵画教育観がいかに時代遅れか今後のこの文で分かる。

(続き『18歳の自伝 第三章 磯上先生の哲学』