2020年8月13日

18歳の自伝 第三章 磯上先生の哲学

『18歳の自伝 第二章 受験絵画』の続き)

 磯上氏は僕が美大受験コース、つまりはほぼ美術部で絵描いてていいよという進路コースに来た時点で、それまでのなんでも好きなの描きな式の趣味的な教え方じゃなくて、いわゆる古典的デッサンに近い事を教えた。これは受験絵画的ではないと既に書いた。なぜ彼がそうしたかだが、長い目でみての自分(当時は唯の一生徒)の画業の基礎作りのつもりだったのだろう。
布の習作
2000年
紙に木炭
45 × 45 cm
作家蔵

パルテノンの女神
2000年
紙に木炭
40 × 60 cm
作家蔵
現実にこの基礎作りは、正直、のちにわかる事になるよう受験絵画の為には寸分も役に立たなかった。というか大幅に逆効果ですらあった。しかし17才当時の僕は、この後にくる18才の根本から考え方の見直しを迫られまくった時期にも、磯上氏の基本姿勢の哲学というか、基礎重視の考え方を度々思い出したというか、寧ろ模範的な存在だったのではないか? と考えるしかなくなった。最後まで読めばなぜかはわかると思うけど。

 磯上氏は当時、多分40才くらいだった気がする。単に若作りに見えただけでもっと上だったかもしれない。しかし彼は現代美術としか呼べないミクストメディア作品を作っているのとは別に、さっきも書いたが、一人用の教師室で、なんといまだに練習してたのである。普通の写実画を。練度は半端なかった。
 僕がなにか用事があって美術室と教師室の間の扉を開け、中でみたに、そこにあった簡易キッチンに薬缶のせてある所を、磯上氏は油彩で模倣していた。これは僕が過去みた全写実画でも特筆できる次元のたくみさであった。多分あれ公開してないんだろうけど。ま、プロよりは遥かに巧い。ダビンチ級である。正確に言うと、のち『白貂を抱く貴婦人』を直接みたけど、磯上氏のが多分、写実性の質からいったら上だと思う。他に名手といってアントニオロペスとかいるけど、それよりかなり巧いのは間違いないだろう。
 それだけ写実画を描けるにも関わらず磯上氏は職業画家になっていなかった。なれるだろうに。僕の同時代というか同年齢に日展系のNなる写実画家がいます。しかし磯上氏の方が圧倒的に巧いのが真実である。即ち売り絵がプロの証とかいう事ではない。Professionalを教授とすると、真の教授って実力の事であるから、僕からみたら磯上氏がプロ。それはそうなるが彼はアマチュアで絵画修業していた。一般的プロを超えている実力を現実に持っているにもかかわらず、彼は一人で修行を続けていた。いわば求道者である。しかも公表してなさそうであった。なんかCさんから又聞きしたと親友Oから間接的に聴いたが、「そういうの(個展とかでの売名、或いは販売など)はもういいんだ」みたいな事を磯上氏はいっていたらしい。脱俗している。
 しかもだ? 磯上氏は写実画をなんで密かに描いているかというと、彼の公表作では基本ないわけだ。なんか僕にも修行だみたいなこと言ってた気がする。
 まぁこういう事であろう。
 彼の絵画観は古典から現代まで網羅していて、その上で、かなり完璧に近い古典画法も自分の修養として修めていたと。

 それが何かあなたに関係あるんですか? はい、ありますね。彼はいわばアマチュアリズム(愛好主義)なわけです。対義語はプロフェッショナリズム(職業主義)。
 僕はこの愛好主義じみた磯上哲学のうち、特に網羅的に絵画なるものを研究しようという多大な野心に、結構な影響を受けたと思う。
 それで18才のとき、奈良美智の講演とか池袋芸術劇場で聴いても全然感動しなかった。なぜかというとそこにあったのは職業主義じみたお話だったからである。これこれこうして絵を描いて、美術館で展覧会して、売っているのですみたいな。それって絵画の本質とは余り関係なさすぎるし。職業目線である。
 僕がみた磯上先生のあの絵、薬缶の絵のほうが圧倒的に凄すぎる次元に到達しており、それはただ写実的だからとかではない。なんというのか本気で絵を研究するとはこういう事ですよという一つの模範を示していた。他に『底流』で本格的に使ってた、メディウム実験ぽい抽象画とかも教師室に架かってたりした。

 もっとこの部分をはっきり穿って書いてみる。
 いわば磯上先生は、ある種の芸術至上主義者だったともいえる。それは職業的地位とか見てないそれだ。彼は当然の如くアートマニアだったろうし、例えばサザーランドやマザーウェルみたいな日本でのマイナー系も勧めてきたし、大友克洋を巨匠扱いしていた。
 僕の父親には父親の物語があるので、それもいづれ村上春樹が書いたみたいに(といっても何度も言うが、僕は総じて優等生系なので別に確執とかない)、別の場面で描くかもしれない。しかし、磯上先生は、同じ公務員とはいえ父とは又違った人生といおうか、趣味の領域に莫大な文化資本を蓄積していた。
 職業画家のそのNさんも書いてたけど、高校の美術教師ってのは、我々の人生にしばしばかなりの影響を与えるらしい。多分、通常の教育課程を日本で経る限り、そこ以外で人生になんらかの自由度を持っている人ってまずいないからじゃないだろうか。自分も完全にそれ。磯上氏を今もこうして書いている。
 
 で、自分はほぼ磯上氏に指導されたままで受験した。
 O君の近所の山奥に定着してた芸大油画卒の或る現代美術家にも私塾的な所でデッサンを教わったりもしてた。
 が入試直前に、先輩らも行ってたドバタ初めて行って、そこでくだらねー造形大生や芸大先端生にグチャグチャの描画方法おしつけられた。

 僕の人生で最も決定的にやめたほうがよかった事の一つは、このドバタ行きの決定であったと思う。しかし塾みたいなもんだろうと思い込んでいたのだ、僕は。現実にあの受験直前の張り詰めた空気の中、あの造形大講師と、先端生講師の2名に今から考えても頭の悪いとしかいえない指導されたのが悪かった。
 僕は中学くらいから都内によく買い物とかで友達と出入りしていたので東京がそこまで縁遠い場所でもなかった。しかし池袋はまだ行った事がなかったが、今から思い出しても一度も足を踏み入れなかったらよかった。そういう、想像できるかぎり最低の場所である、僕にはね。それはそうだろうと次で分かる。

(続き『18歳の自伝 第四章 美術予備校の講師』