2020年8月13日

18歳の自伝 第四章 美術予備校の講師

『18歳の自伝 第三章 磯上先生の哲学』の続き)

この造形大生のほうは青いツナギを着てたので、まだドバタ界隈にはいるのかもしれないが、あお氏としよう。もう1人、先端生のほうはセン氏としよう。
 彼らはあとから知ったが時給何千円以上だか法外に貰っていたので余裕のよっちゃんで、僕みたく素直そうな顔した子供で遊んでいた。

 彼らは受験直前の僕にかなりインチキな事を教えた。速乾メディウム買ってきて、とか、モデリングペースト買ってきてとかいい、ドバタの画材屋で僕にそれらを買わせると、わざと大袈裟に画面を盛り上げ、これで描けという。はっきりいって無理な話。要は普通にデッサン流儀で描く手法を否定してきた。僕が高校3年間丸々使ってまともにデッサン鍛えてきた方法論をその最後の1か月以内に彼らは全否定してきた。しかし当時の自分は福島の素直な子供なので、ヤクザな人が塾じみた場所にいると認識しておらず、彼らが受験落とせば搾取できるくらいの遊び半分でそういう馬鹿をいってると気づかなかった。今まで一度も使った事ないモデリングペーストでわざと画面をデコボコにし、その生乾きの上に滑りながらペーストの白と混ざって次々消失する絵筆で何事か、受験時なら人物画だったが、それを午前午後の数時間でみれたくらいに描写するのは今の自分ですら至難。しかし彼らはそれをやれと命令してきた。
 確かにそんな芸当できれば他の受験生と差異化されるから目立つのかもしれないが、この世の誰もそんな意味不明であるばかりか全く意味がない、不必要なインパスト(盛り上げ技法)を強いて使わなきゃならない必然性なんかない。今の自分ならやりたければ自分でやれって感じで完全に無視しただろう。
 わざわざ高い金払って美術予備校の受験直前コースなる場に行く。パンフレットを各高校に送ってくる。これは予備校業界の陰謀であった。当時の自分(3月生まれなのでまだ17才)はその汚い商売に全く勘付いていなかった。先輩も行ってた様だし行くほうがいいんだろうな、と安直な発想で行ってしまった。

 あまつさえ、今にして思うと青氏も先氏も、どうみてもオツムのできは並の感じであった。こういってはなんだが僕よりIQは低いと思う。ふにゃふにゃ、チャラチャラした大学生といわざるをえず、まあ彼らも悪意があったわけではないのかもしれないにしても、余りに発想が幼稚で今からみると子供の遊びだ。これでも分かる。美術業界は通常の知能のよしあし、頭脳のできばえと全く違う、馬鹿やヤクザの部類が威張っている世界である。彼らが天才とか図抜けた個性をもっているならまだ許せるが、そんなの僕は業界遍くみてきたけどまだ1人も会った事がないしみた事もない。凡愚が肩書き振り回す俗物界である。磯上先生はそういう業界事情を知悉していたから、子供の僕に忠告した。「(美大芸大受験、或いは美術界は)ヤクザだぞ」って。ファインアート(純粋美術)が役立たずの虚学虚業という意味もあるが、それ以前の話で、先ず知能が低いとしかいえない連中が、芸大美大の肩書きを得て暴挙三昧していたのだ。
 僕はタマビ(多摩美術大学)、ムサビ(武蔵野美術大学)、で造形大(東京造形大学)、あと芸大(東京藝術大学)、要は都内の女子大除く美大芸大は現役で全部受けた。しかし磯上先生らの指導に従って受験絵画なる物を基本やろうとしていなかったのもあるが、上記2名による受験対策もトンデモだった。

 受験絵画とは、通常の絵とは違って、大学の都合で1日、または2日で描かされる油絵の事である。普通、油彩は最低でも一ヶ月以上、長い時間をかけて描く、ゆっくりと乾燥する画材なので、そうなると速乾剤を使うしかない。しかしこれは亀裂が入り易いなど長い目でみると危険でもあり、通常は使わない。
 僕は磯上先生からこの類の速描技法は基本的に教わっていない。彼はわざと教えなかったか、教えるべきでないと思っていたか、どちらかだと思う。彼は予備校の受験直前対策でそれを教わるくらいで十分だと考えていたのだろう。実際、実作では先ず使わない、使いえないから余り意味がない技法だ。
 ところが、僕がドバタの青先2名から教わった、というか僕の意思ぬきでおしつけられたのは通常の速描技法でも全然なかった。速乾どころか超例外的な奇抜技法であり、周りの誰もやってないし今適当に考えたけどこれでいけるんじゃね? 的な事を17才の隣でケラケラ笑いつつ言っていた。彼らは僕で遊んでいたのだ。僕は当然自分は画家になるつもりで、進学校にいたので自然の流れで、美大芸大を受験するつもりでいた。しかし彼らは僕の志とか完全にどうでもいいと思っていた。単に合格者を出せば予備校内での箔がつき、バイト代あがるかもしれない。あがらないかもしれない。僕の画業も人生も彼らにはどうでもいい事だった。

 自分の高校3年間を振り返ると、15才の時点で最初の美術の授業を高1の4月だか5月だかに受けてから、多分、夏くらいまでに部活かえ、それ以後はなるだけ朝一で学校に行き、深夜一番遅くまで美術室で絵を描いていた。これは間違いない事実で、要は僕は死や無意味なこの国をのりこえる為にそうしていた。
 だがこの青先2名は、そういう純粋無雑な画家志望の青少年の心を完全に弄んだ。否、千歩譲って、譲るべきではない所だが仮に、彼らが受験絵画とはこういうもんだよ、と自分らが経由した砂場ごっこ遊びのまねごとを、僕にさせようとしていたのだとしても、それ自体、画業の本質から免罪されないと思う。
 当時も今も僕は、この青先2名を別に恨んでいるわけではない。どちらかなら憐れんでいるのだけれども、それはこの後の、どうみても自分には過酷すぎた、望まぬ兵役じみた1年間をなんとかのりこえたばかりではなく、大分、美術的にも精神的にも成長した今の自分からみて、彼らもまたうぶだったからだ。