2020年8月14日

18歳の自伝 第五章~第九章

『18歳の自伝 第四章 美術予備校の講師』の続き)

   第五章 完全な挫折

 それまで自分は挫折というものを一切経験した事がなかった。あったとしてもスイミングスクールでバタフライまで覚えてやめたとか、ソフトテニスで県大会だったなんかまで行った気がするが本気でやってないとか、いわば自発的なもの。他人から自分の存在意義を否定される、あるいは無理やり無能のレッテルを貼られる類のものではなかった。よくエリートは挫折に弱いというが、その時点までの自分は完璧にそれだったかもしれない。
 少なくとも自分は限界まで努力していた。今もそうだがそれは他人がどうあれ自分に対して当たり前の事だと思っており、当時そうしたのは絵についてだった。既に高校3年間本気で絵に打ち込んでいたのは書いたけど、詳細まで書くと本が複数冊にわたるので、ここでは高校時代の出来事については概略に収める。とかく自分は芸大美大受験も寸時を惜しむほど本気でやっており、今も思い出せるけど学校ではずっと描いてたが家でもそうしていた。姉が大学行っていなくなって洋間と元事務所の2部屋が僕の部屋だったが、夏も冬も描いていた気がする。自分でモチーフ並べて。蜜柑とかCDとか。自画像とか。しかしこれらは、青先2名の画策もあったけど、速描にはあまり役立たなかった。尤も、僕はその青先らがその場で捏造し僕にやらせた適当な厚盛り技法も学んで、その後その借り物の技法は捨てたものの、受験すべて落ちて失意のどん底から立ち上がるしかなかった時期に描いた自画像に応用したりしていた。
 あれはムサビの試験だったと思うが、といっても生涯で一度しか受けてないが、あのピロティ(列柱)の上にある奇妙なコルビジュエ風アトリエで、非常な緊張のなか靴だったなんかのモチーフを描かされたんだが、僕の記憶が正しければどういうわけか僕も賢かったらしく、その前の造形大実技で青先にやらされたインチキ厚盛りで到底描けなかったので今回は彼らを無視して普通に描こうとしたのだが、この場合も速描できなくて形にならなかった、と思う。モチーフ自体も明暗が鈍く、グレースケールを生乾きの油彩で表現するのが難しかった。自分が絵を描く際の極度の緊張に弱いのもあるかもしれないが、今度は青先技法の失敗を前提に、逆にいわゆる速乾剤を使わなかったので難易度があがりすぎたのもあるだろう。結局これらを考えると、美術予備校の直前対策というやつは百害あって一利もない。各画学生の個性のなりたちをわかりもしないのにその場かぎりであれこれ適当いう講師を無視し、本番と同じ時間で描く練習としてだけ使うなら、もしかしてなんらかの効用は見込めるのかもしれないが、どっちにしても自分はこの文全体で美術教育を全否定する事になるので、その慰めも意味をなさない。
 自分は性差的には男らしい男になるよう育てられた気がするので、当時泊まっていた池袋の椎名町駅からすぐ近くにあったウィークリーマンションの一室で、受験全部落ちたときに一人で悔しくて泣いていた。なぜかといえば自分は少なくとも3年間、全力で絵に懸けられるだけ全魂を込めて全力に全力重ねて全力で努力はし尽くしたが、それが一切太刀打ちできなかったからだ。自分自身が無力だと気づいたのはこれが最初であり、人生で初めて完全に挫折した。
 それまで自分は努力すれば何事も成し遂げられると信じていたが、限界まで死力を尽くしても、全く通用しない世界があると知った。よく甲子園で負けた高校生が泣いている。僕の場合、文科系であったから、ウィークリーマンションの狭い一室で泣いていた。誰も見れない場所で。ある意味では、最も青春らしい場面かもしれない。しかしそんな体験なしに、特に血眼の努力なんてせず美大芸大にヒョイっと受かって、かつ別に本気で画家になりたいなんて思っておらず、チャラチャラ生きて卒業している美大芸大生がほとんどなのだろう。
 今にして思うと、この世界認識も随分初心だったと思うが、それというのも、現実の美大芸大あるいは美術業界は、もっと何でもあり、あるいは卑怯千万なルール破りの連続で、要は場外乱闘や異種格闘技に肩書き馬乗り、その他あらゆる嫌がらせの連続政争みたいな、純粋野蛮界じみた場所だったから。素朴なばかりか随分育ちのいい邦側カウントリーサイドの一青少年が、足を踏み入れるには全く向いていない。特に都内の美術業界は腐敗どころか、芸大を頂点とする悪魔城だったのだ。


   第六章 O君の人生幸福論

 今では結構昔の事みたいに感じるので、まるで夢、それも大分悪夢の一部だった様だが、自分の経験した現実感を読者にも感じて貰う為、もう少し詳しく当時の出来事を書こう。この章あたりから小説ぽいと思うが実話だ。
 まずはじめ僕と親友O君は、スーパーひたちから降りて山手線に乗り、あのごみごみとした池袋駅の一部から東武東上線というので多分、大山駅だったかに行き、そこにあったウィークリーマンションだかマンスリーマンションだかで、受験前の一か月間くらい泊まっていた気がする。この期間、自分は本気で絵を描いてたわけで、高校の卒業式に出なかった。ゆうすけは? みたいな事をとっちゃんといわれてた友達がいってたらしい。しかし自分としては集中しなければならないので卒業式とか出る余地もなかった。恐らく芸大受験の前に卒業式があったのだ。多分O君のほうは、卒業式出てた気がする。彼はのちの経歴でもそうなるんだろうけど僕より適当な性格であったと思う。
 で、僕らは池袋の街が夜景で見える、随分高い階の部屋に泊まっていた。前も別の文で軽く書いたが、ここではその時、17の自分がどんな感じを受けていたかなるだけ詳細に辿ろう。
 まず東京という街は全体として決して美しいとは言い難い。これは一部の都民には心外かもしれないが、風光明美な外部、特に北茨城みたく自然資源にこの上なく恵まれた土地からきた人の目にはもう疑う余地がない。都民がよく自慢している場所がどれもこれも恐ろしく醜悪で、僕は一度も都内で景色に感動した事がないくらいだ。高が人工的建造物、それもにわか作りの近代建築と、何十億年もかけできあがった自然景観を比べるのがおかしいといえばそれまでだが、その肝心の建築も、大抵はよい意味で古びてるんじゃなくてそれを一切計算してなく悪いほうの経年劣化でひどく荒れ果てた姿のもので、特に僕が最初に都内で長く過ごしたその池袋の街は、今も思い出す僕の心にスラム的印象を与えるだけ、非常に悪い影響を与えた。僕の思春期の最盛期に、なぜ秋田や山形といったもっとましな、ましというより遥かに美質に溢れた場所へ行かなかったか? 当時の僕は完全に、小学生のころ最初のCD『カローラⅡにのって』買った小沢健二ら南関東人の一部による、上品ぶった俗物根性の嘘にだまされていた。それに、当時はまだ秋田市立美術大学もなかったし、偏差値的に東北芸術工科大学は僕の進路先の候補に入ってなかったのだった。寧ろ、自分は絵に命を預けてしまっている以上、世界一等の画家になるのだから当然、頂点をめざさねばならないわけでもあり、芸大入れたら行くだけだと思っていた。しかし自分は芸大は国立だけど、ムサビタマビ造形大は私立でしょってくらいで、別に美大だろうがどっちでもよかった。単に絵が描きたかった。
 なぜこの大山駅だったかにあったウィークリーマンションを出すかだけど、この時、あの部屋にあった小さなベランダだかバルコニーからみた夜景はそれなりに綺麗だった気がしたからだ。あとにも先にも、僕の目に夜景が程あれ綺麗なものとして映ったのはこの時しかない。なぜか? この時の自分は17才で、未来には希望が満ちあふれていると思っていた。あの生温い都会の空気。それは人々のよごれた生活がかもす何事かの吹き上げだったとしても、当時の自分はけがれをしらない青少年であり、まあ今も知らないけど、当時はもっと知らなかった。O君は大したロマンティストでもなければ感受性が僕ほど鋭敏でもない気がする。まあ僕も感覚が超繊細というだけでそこまで非現実的でもないが、この時僕がどうしていたかというと、腕を枕みたいにしてベランダの手すりにもたれ、かなりの時間夜景を眺めていた。あの夜風の中で。

 しかしO君らがその時どうしていたかというと、なぜか同じマンションに泊まっていた同級生、同じ部活の団長(S君)らと別の部屋というか一階だか二階だか下の部屋で焼肉しておった気がする。これについてはもう少し説明が要るだろう。

 そもそもOとは何者か。時は高1に遡る。彼はなぜか僕が美術部入ったのを知ってかなんでか知らんけど、家が同じ方面なので高校の行き帰りで途中まで同じ電車に乗り合わせる事も多く、朝もよく一緒になるしで、僕のあとから美術部に入ってきた。
 O氏は天然キャラと見込まれ、ある日、高校への道の途中で、ちょうどバイパスの上で将来の夢はと問うたら彼は「幸せになりたい」といった。今聴いても面白いのでその場でも笑ったのだけれども、普通、なにかコックさんとか学者とか具体的な職業みたいなのを言う事と相場が決まっている質問で抽象性が異様に高い答え。しかも、当時の自分はこの幸福主義みたいなのは稚拙な目標だと思っていた。僕の家は典型的な中流、もしくは一応全部大卒だったので当時として中の少し上くらいだったのかもしれないけど(昔母親にそういったら「うちが中流だと思ってたの?」と驚かれたのでいくらか修正した。確かに母方には東証一部の社長とかいるのでそういう意識なのかもしれない)、世間的で世俗的な幸福みたいなのに僕は最終的に飽きあきしていた。勿論家族のほうはいいんだが、例えば涼しい夏に清流にピクニックに行ってイワナやヤマメと遊んだり、冷たい水に足浸しながらおにぎり食べたり。あちこち家族旅行するとかは面白いほうでしょう。僕に最悪だったのはろくでもない学校社会とか、たまに接する事になる無教養社会の悪意ある人たちであった。こういっては何だが、まともに高等教育を受けていない、あるいは生まれながら有徳の資質がない人々というのは、なんでも悪解釈する傾向にあって接するだけで謎に意味不明な害を受ける事が頻繁にあった。だから平凡な幸せを求めている人はそれを、俗世のわざわいを知らないのだろうと僕は感じた。中流的な幸せってそんなもんだよって。所詮、世間と接しない訳にもいかないし、家庭的幸福だってあったらあったで当たり前のものにすぎないのにと。
 これらが脳裏にあって僕は思わず笑ったのだが、O君はなぜ笑われたか分からない風だったかもしれない。だがいえるのは、彼の幸福主義はアリストテレスのそれと似て非なるものにせよ、あるいはミルが幸福になるには幸福について忘れる事だと自伝に書いたのと逆に符合しているにしても、O君なりの人生論を含んでいたのだ。それ自体、随分深い考えであったのに、また僕の脳裏には幸福が人生の最高目的だとは思えない、カント的な究極目的観も今ほど言語上はっきりとではないにしても感じられていたと思う。カントは義務が幸福より或る場合には上位の目的だとした。目の前に溺れた人が助けを求めている時、命を投げ出して助けに行く様な場面で、自分の幸福は義務以下の価値しかあてがわれない。僕は高1の時、これらの倫理学的知識はなかったにしても、おおよそそういう感じの常識を一瞬で直感し、よい意味で平凡すぎるのに、なぜか抽象度の高いO君の返答に笑ってしまったのだった。
 なおあとからミクシー上でO君がいっていたが、「鈴木さんは僕が夢を幸福になる事といったときの切実さが分かってない」との事で、O君の物語を別の場でする機会があればするが(或いは当人がなにかで有名になって直接聞けたらそれをきいたらいいが)、彼の中学とか限界集落に近い山奥だったのもあり、陸上部くらいしかなく強制加入で教員に走れ走れとおいつめられ、毎日ストレスで起きるや体が異常をきたし、ひどい目にあっていたらしい。


   第七章 僕のみた池袋の夜景と焼肉煩悩

 O君とは大変仲良くなった。僕は人生の大体の時期に於いて親友はできるほうだったが、特に高校の時は思春期の真っ只中で、その頃ありがちだが大人ほど語彙もないし、あれこれ思い悩みはするもののうまく言葉にできない。O君とは当時あったピッチ(PHS)という携帯電話の一種とか、固定電話とかで夜遅くまで話してた事もあった気がする。なんというのか何事につけ哲学的な話し合いをしていた。いわゆる対話術だろう。
 高校の試験だったかで漱石『こころ』出た時だったかに、帰り道でO君以外の美術部の友達(デザインかなにかやってた気がするけど、普通大学志望した、いわゆるアニオタ系の友達)と、作中のKが悪いのか先生が悪いのか討論みたいなのしたが、そういう類のを僕とO君は呼吸みたく毎日やっていた気がするし、もっと抽象的な議論をしていた。既に哲学やってたみたいなもんだ。美術は僕らには往々にして、ある議題を提示してくる踏み台だった。僕もO君も直感は優れたほうだったと思うので、審美的に一瞬であれはかっこいい、これはダメでしょなど感覚論が先立つ傾向があったにしても、少なくとも文化的、知性的考察もやれる限りやっていたと思う。

 これとは別にS君という僕が団長と呼んでいる人がいた。ちなみに高校は男子校だったのだが、この人はあだ名ってだけでなく普通に身長も高く壮健な出立で高校野球部などの応援団長をしており、それなのに運動部でなく美術部(但しほぼ帰宅部)所属で、しかもたまにきて部室で適当に話して帰るだけでなく、なぜか文化祭にとき竹ひごで謎の編み物作るという変わり種といえなくもない立ち位置だった。一浪で外語大行ったけど。
 僕はO君ともS君とも仲よかったのでどっちのおうちにも遊びに行った。それだけでなくおうちに泊まらせて貰った事もあり、彼らも僕んちに泊まって行った事もあった。まあ凡そあのキチガイ高校的な冗談をいいあったり、音楽だの小説だの美術だのの話をしたり、終わりなき人生論をしたりしていたのだが。しかしS君が大学入った頃から、これから書くよう僕とO君の運命は急激に変転していくので別の人生の道へと別れて行った。
 緑川君があとから言ってたがS君は今では既婚者で、子供何人か目がうまれるとかいっていたらしい。そういう現実的なタイプだったからおおかたそうだろうなとあたりつけて緑川君にツイッターDMで尋ねたら、そうだと返事があった。

 これらとは別に、この人はある種の不良かと僕は思っていたのだが、高校入学終えて最初のレクリエーションだかいう日の帰りがけに、僕だけ同じ中学からいった友達と違う別のクラスだったので、友達を待ってたら、自分がなにかの拍子に誰かの机の上に置いてあったバッグを落としてしまったらしい。全然気づかなかったのだが、それをみてブチ切れてきた男がいた。直せと。それで拾って直したら、なんかとっちゃんとさっきいった別の男がきてなめてんじゃねーぞみたいな事をかぶせて言ってきた。君に関係ないって感じで随分お調子者だと思うわけだが、とかく、とっちゃんのネタ行動はいいにしても、いやその程度でぶちぎれないでしょ普通と僕は感じたんで、それ以後この男(仮にK君とする)は遠目にマークしつつ関わらない様にしていた。僕は平和主義者であり、まあどうしても喧嘩せざるをえない時はするかもしれないが、喧嘩っ早い人は面倒なので。
 この文では煩瑣になるので深入りしないが、僕は俄然プラトニックなので当時つきあわされた、というのが問題ならつきあうことにした女性ともお祭りの帰り道に信号待ちからコンビニまで30秒くらい手を繋いだ以外なんもなかったけれども、このK君はなにやら彼女かなんかと相当の事をしていたと聞く。定かではないが。

 高1のとき僕と団長は同じクラスだったのだが、高3でO君と団長とK君は同じクラスだったみたいだ。それで前章の最後の光景になる。

 思うにそのウィークリーマンションは高校で受験用に紹介された場所で、僕は美術部の親友のO君と同じ部屋を借りていたが、団長はこのK君と同じ部屋を借りていたのだろう。まるで夢の一部みたいだからにわかに信じ難くなってしまうが、なんか僕が月9ゲツクトレンディドラマ(今でいうネットフリックス人気動画? 一切みてないけど)か、少女漫画の主人公みたいに瞬く夜景をみながら夜風に吹かれ、あれOどこいったと思って部屋の外に出たら、やたら焼き肉の匂いがする。
 各階の移動にはエレベーター使うしかない。しかしこの高層マンションは中心部が空洞になってるので、そこから他の階の物音とか匂いとか伝わる。それを頼りに適当な階に行ってみたら、修学旅行でもないのに完全に男子校のノリで、なぜか部屋のドアを開けたまま地べたにホットプレートをもちだしてKらが焼肉やっていた。普通のマンションの廊下で。そこに団長もOもいた気がする。僕はKとも仲良くないし、は? みたいな顔もせず、苦笑いし軽く気まずい感じで自分の部屋に引き揚げたが、あとからOがいうには煙で警報機がなるから外でやったらしい。そういう蛮カラ旧制中学ノリみたいなのは、僕が高3のとき共学化したから今や相応消えたのかもしれない。僕らの一個下の学年を最後の火に、今ではあの焼肉煩悩と共にミーム消滅したのだろうか。


   第八章 2つのウィークリーマンション

 大山駅だった気がするのだが、17の時に生まれて初めて、ウィークリーマンションの近くにあった吉野家だったかすき家だったか松屋だったかの牛丼を食べたのだけれども、これらの一つは僕の親戚が経営してるのであまり悪くいえないにしても、正直なところ、自分はこれらの東京飯、東京労働者飯みたいなのがあまり肌にあわない。というか自分は東京が寸分も肌にあわない。
 これらの中で、自分は吉野家の牛丼が一番ましに感じたけど、食券系の定食屋は総じて苦手である。なんか家畜の餌っぽい感じがしてしまうし、その後に食べた都内の定食屋系では大戸屋が自分には一番合っていた。これは間違いない。なぜならまだ上品だから。だからいつも言っている。僕の感性は男より女に近いと。女性も入れる定食屋コンセプトだからましなのではないだろうか、僕にも。落ち着けるし、食べ物自体もバランスよくちゃんとしてるし、食器とか店の作りも雑じゃないし。音楽もいいほうだ。なんでそれが東京では不調なのか? それって、やっぱり僕の感性と都民一般のそれが全然あわないからかと思う。僕がみた都民って総じて死ぬほど雑で、もっといえば野卑で、傲慢でもあった。まあ野蛮ともいえるけど、それは僕の基準からすればそうという事で、あとで出てくるが或る大阪弁しゃべる奈良人とかもっとすごく雑だった。

 凄くどうでもいい情報ではあるがついでに書くと、この大山駅だかのほうのウィークリーマンションの受付は気丈オバチャンであり、なんか気軽な感じであった。普通に人見知りオクテ青少年の僕とかにすら。炊飯器かしてあげようか? みたいな。
 高1のころCDダビングしたテープで聴いてた山崎まさよしの『Fat Mama』じゃねーが(テープですよ懐かしの。もう見かけないけど。ソニーの、カラフルで透けてた元祖ウォークマン当時新型の青いやつ、北茨城の国道沿いにあった昔のケーズデンキことカトーデンキで買った)。そんな感じ。どんな感じ? この曲入ってるアルバム『HOME』聴いてたらダビングしたテープくれって或るクラスメイト(なんとリーゼントの人。当時もいたんですね)にいわれたから時系列的にいきなり3年も遡って高1の時だけど、そうしたテープを次の日だかにその友人にあげたら、お前センスいいなみたいなこと言われた。山崎まさよしでいわれるのか。
 でまた3年後に話進むが多分、あの擬似親的雰囲気オバチャンて学校が受験用に指定してたくらいだからいなか出高校生とか客にしてて、臨機制変な対応に慣れてんだろう。ミース・ファン・デル・ローエでいう神ディテールすぎて完璧にどうでもいいけど。

 僕の親はどういうわけか自分にバイトとかさせようとしなかった。特に金銭的な不自由をさせたくなかったのか、一度も僕に無理に金稼げ的な事をいわない。それで僕が生涯でやったバイトみたいな事は全部で2回、正確には3回あるがそのうち一個は自分からバイト代いりませんといったタダで手伝った製図CADなので、早大理工学部でやった二級建築士の試験監督補助と、工学院大新宿キャンパス(つまりのち僕が専門通ってたあの超高層ビル)でやった一級建築士試験監督補助である。これらは全部21か22才だったかの頃。
 よって僕は18才の間一度もバイトとかしなかった。
 大体あの池袋の夜景を大山駅だったかのウィークリーマンションの上階からみながら予備校だかに通い、そのひとつき後くらいには椎名町のウィークリーマンションに受験のため移動していた。大山ウィークリーのほうでの思い出としては、さっきかいた東京飯(農業県かつ漁港もある僕の地元のお食事に比べてひどく美味しくない)の洗礼があったが、なんというのか街自体が湿っぽくて明かりがビカビカしており、少しもうつくしくない。アーケードの下に変なプリクラの機械とかがみっともなく道端にはみ出していたりして、ごみごみ、どころかミゴミゴ(さもなくばウゴウゴかルーガ。およびスラム系の逍遥ショウヨウはたまたペリパトス学派)していて雑多で小うるさく薄汚いし軽そうな人らがたわけてるし気分も風紀も悪い。もうこの時点で今にして思えば二度と東京に近づかなければよかった。合わないものは合わないのに、僕はまだ騙されていた。嘘ばかりつく都民という連中に。
 大体この頃だろう。CD屋って間もなく都内からも消えるんだろうけど、当時は試聴機が置いてあって現役だった。レンタル店かねたそういうのが大山駅あたりにもあった気がする。それで入って適当にヘッドホンかけた時聴いたのが、レディオヘッドのアルバム『アムニージアック』だった。今もだがあの冒頭の曲を、全面ごみすてばみたいな、ごみごみごみ雑然乃至ナイシ、ぎらりぎらり、ちょろり(チュロス! では毛頭ない。ディズニーでわざとにおい流すな。流せ。そんないい香りではなく、下界みたいな臭いである)とした、よもや自分には、とにもかくにも不愉快すぎる、池袋近隣の駅前商店街一角にて、だかで、いきなり大音量で聴かされるといい。
"Packt Like Sardines in a Crushd Tin Boxパックト・ライク・サーディンス・イン・ア・クラッシュト・ティン・ボックス"、こと、『砕いたブリキの箱に入ったイワシの様なパック』――はい、どうぞ。僕のこの後の1年間を斯くほど象徴している曲はない。かもしれない。このときの章のこの部分だけか。テーマ曲か? 映画化してみろ。もっと色んな曲きいてたけどね。あとでだすけど。この曲自体はいいけど、本当に繊細人間の魂に応える悪い刺激しかない。だってボリュームが明らかにおかしいもん、いきなり最大音量で。東京は僕には正真正銘の地獄であったが、その中でも池袋が最悪だったと書いているが、その最初の一撃がこれだ。
 今もうちにあるけど、いわきの無印良品(当時は路面店があった)で買った防水スピーカーの中にソニーのCDプレイヤーを入れてなんか音楽を流しシャワー浴びながらそのシャワールームが声反射してカラオケみたいなのでうたっていたら、多分その頃一番好きな曲だった『I’LL BE』シングルだったと思うけど、なにかドラマじみていたらしく、あがってからあとでO君にかっけーんだ(格好いいんだね、クール! って意味か。まさにいわき語感だけど)とかいわれた。半分感心しつつ半分からかう様な感じで。
 とかく画学生がどういう風体でいるかというと、キラキラ輝く鉄製のキャリーリフトみたいなのに重そうな画材をミニ四駆や工具入れる様なでかいプラケースに詰め込んで、それを都心の人混みの中、ごろごろ引きずって歩く。ほかデッサン系の試験や練習に行く時は、さらに大きなカルトンという画板を、この工具箱とキャリーの間に挟んで行く。これは格好いいとかではない。昔、ダヴィンチがミケランジェロと絵・彫刻のどっちが偉いか議論になったという逸話があり、真相は定かではないが、少なくともダヴィンチの手記には彼が絵のほうが優位にあると考えた旨を列挙してある。その中で最大の訳の一つが、彫刻は肉体労働だが絵は精神労働との説である。確かに立体より平面のほうが3次元にわちゃわちゃ作品周りを動き回らなくていいし、椅子に座ったり立ったりして優雅に描いてられるといえなくもない。第一、画家は固い粘土をこねる作業は要らない。パレット上の掃除で済むし、基本的にはだが手先か指先での作業になる。しかしこれらは程度問題で、彫り物に神経使わないはずもないし、体より巨大な画面を相手にするとなるとこちらも随分格闘じみてくる。要するに、絵画と彫塑という造形美術のうちでも各々それなり以上に大変な作業がしばしばあるという話で、実際趣味でやったとしてもこの手作りキャリーケースを転がしてアスファルトだかコンクリートだか砂利だか土だかの道路を歩いている全国の画学生は存在する。描画ソフトで試験すりゃいいべ。正にそうだけど誰もやらない。保守的体制はこの点でなんの救いももたらさない。この点以外でもかもしれないが。
 美大芸大教員は当人達がこの旧時代的でアナログなボザール流油画の相当ひん曲がった模倣を、唯一無二の、絵をお勉強する王道とみなすしかない。既にできたレールの上、明治人の考え方をそのまま踏襲。だが、いづれすべて破綻するに相違ない。ピクシブかDLサイト、メロンブックスさもなければDMM(FANZA)に最新漫画の同人誌描いてアップし、お宅と自費で金儲けしてるサークルはまず個人の猥褻漫画家だけど、その種の春画出版とすら都内美大芸大の基底は大幅にずれていて軌道修正されない。暗黙に芸大日本画大学院または洋画のそれを頂上とする国内の美術教育体制は、イラストはデザイン科ね、みたいな訳のわからない線引きで、公募展サロン的に応用芸術全部を曖昧にし、奈良美智や村上隆みたいな中間例ごと不都合な存在として黙殺しているのだ。その背後にはラスボス天皇が文化庁および日本芸術院の頂点に控えている。
 尤も17才から18才にいよいよなるかならないかの少年は、青少年は、その種の禍々しいとしかいえない東京メトロポリスのひどくがちゃがちゃごちゃごちゃがさつな池袋という街の果て、あるいは小さな一角で途方に暮れまくっていた。しかしそれは1日から1週間くらいの事で、青先2名の悪戯いたづらじみたクソ指導のお陰もあり無事すべての美大芸大に落とされた自分であったが、その完全挫折は次の事を自分に物語っていた。修行だと。お前はドラクエでいう最初の中ボスみたいなのの前に太刀打ちできなかっただけだ、よってレベル上げあるのみ。この考えが、あの椎名町駅近くのやおらせせこましい住宅街の一角にあるウィークリーマンションで、その一階の道路に面してあるコインランドリー空間で、はじめて使うので軽くびびりつつでもないが、こそこそとあるいは粛々とシャツだのズボンだの洗濯槽に入れてピッとかなんじゃらほいボタン押し込んでいた自分に浮かんだのは、全くの誤解でもあり、余りに楽観すぎる見通しであった。涙を拭いて立ち上がる。もはやミスチルの歌などなんの効果ももたない。おまじないですらない。じゅもんですらない。ベホイミどころかキアリクにすら値しない。未来の人々にはこういう唐突なサブカルもといドラクエネタ部はおそらく一切意味わからないだろうけど、要はあの僕にとって青春の最大の一時を過ごした場所であるにもかかわらず画材屋のレジのお姉さん(別に話してない)以外になんの親しみも感じえない冷たく、淀んでいて、なおも苛烈すぎる残酷刑みたいな煉獄のコンクリート安藤建築を2段階劣化させたみたいなどばた校舎で僕は、うめき声を上げる。うー、苦しいよと? いや苦しみですらない。ガウタマ・シッダールタさんでいう苦行期、ですらない。全くつまらなかったでもないが、格別楽しくて仕方がないでもない。全体としてはなんらかの苦役の一種と感じなくもない。ゆえ苦しみってより空疎ドゥッカにずっと近い様な気もするにしても、格別に僕の人生に暗い、暗すぎる闇を作り、スーラージュの影以外なにも落としていない時期に僕はあの青の時代を過ごさせられた。過ごした。青の時代ですらない。ピカソの。なんだあれ。椎名町時代か。なんか姉を、先輩に教えて貰った隠れラーメン屋(名前出すと人きそうだからイニシャルHにしておく)に連れて行った時、電車の中で僕が「椎名町って椎名林檎の由来みたいな町だから」とか姉に紹介ぽく言ったら前の席に座ってたサラリーマンに新聞から顔あげジロリとみられた。実際そうじゃん。酷くすさんでるし。僕があの町で過ごしたのはこの18なるかならないかで全美大芸大おとされた時期だけだったと思う。もしかしたら夏季講習とかいうのも高3夏休みに行った気がするけど、どちらにしても、最初の都会暮らしの印象を想像できるかぎり最悪かそれに近い最低評価に下げるには十分すぎるほど、なんともいえない場末感があるのだあの駅前って。思い出があるといえばありすぎるほどあるが、さっきからくり返すよう自分にはまごうことなき東京地獄物語の幕開けであった。椎名町在住者はこれを小耳に挟むやつむじとへそを同時に曲げご機嫌斜めかもしれないが、あるいはダヨネーダヨネー言うっきゃないかもねそんな時ならね(世代によっては一切しらないEAST END×YURI『DA.YO.NE.』の流用を時代感だして敢えて使う箇所)、かもしれないし、僕が言ってる事には自分の個人体験としては一理も二理もあるのは確かなので、冷静に読み進めると、ある18才あたりの青少年がそこいらで、一体なにをどう感じたかわかるであろう。


   第九章 静岡人と常磐人

 なぜ僕が椎名町駅のウィークリーマンションの一室にいたか。あれは駅から大分遠い、ウェストゲートパークこと西口公園から池袋の住宅街を練り歩いて行くしかないドバタなる場所から最近の仮宿の一つであろう。実際その後、ズボラっぽい格好をしていて白いが薄汚れたツナギを着ている静岡出の髭面の男(名前はshiZuokaから仮にZとする)は、やはり全美大芸大おちたのでドバタ浪人が決まったにしても、この椎名町のウィークリーマンションのすぐ隣に下宿を借りていた。彼の部屋は椎名町ウィークリーマンションからも椎名町駅からも徒歩ですぐの場所で、O君らと行ってみた事があるのだがとても狭いワンルームの、鉄筋コンクリートアパートの入り口からすぐ左となりの部屋で、彼はそのとき部屋一杯に100号くらいの大きな画布を広げ、なんかぼやけた様なアートを描いていた。この記述でもなんとなくわかるかもしれないけど、僕はこのZにあんまり近づいていなかった。今にして思うと不潔感が相当だったからかと思うけど、なんか言動もなんか抜けてるんじゃないかな(特にある種の倫理観)って感じで僕は親しみを持てなかった。ことさら、僕は性的にだらしない人が少なくとも男の場合は気持ち悪くて苦手らしく、Zは自慢げでもないのかもしれないがタバコを吸い吸い、彼女にやられてさー、なんか支配された様な感じになるんだよねー、とか語尾にさーとかねーとか伸ばしてつけてくるのがこのZの口癖である。けど日常会話でこういう性的ネタ、下ネタを平気で挟んでくる人間が僕はその下なく苦手といってもよく、これをOや僕の前でペラペラ喋るので、僕は本能的徐行速度で、自分でも気づかないほど着実に距離を置いて行ったみたいだった。多分、そういう人とつきあっちゃいけません的しつけなのかもしれない。
 僕は文や絵はよく読み書きするものの現実では余程親しい間柄じゃないとほぼ口を利かない、集団中にいつつ一人でおとなしく本読んでて、ウェーイパーティーウェーブだぜぇ輪を広げてくるお祭り勢になるだけかかわられたくない、遮二無二文人然とした寡黙男であるが、このZはとかくよく喋るほうだったと思う。確かに、僕とOはソクラテスやプラトンみたいに、メタ認知の応酬らしき抽出論なら頻繁にやっていた。しかしZのは、こういうのが適切か、通俗的日常会話に無内容な愚痴を混ぜた感じで、当人的にはテキトー真剣なのかもしれないけど、僕からすると時間の無駄であった。なんにでもテキトーテキトー、といってちゃらちゃらふらちゃら、彼女と交尾自慢浮気自慢みたいなのする静岡男に会ったのはこれがはじめだったけど、次に行った建築専門学校カレッジにもほぼ似た静岡男(Z2とする)がおり、サンプル数2でなんもいえないとダイゴが突っ込んでくるが、そのダイゴすらそういうタイプだし。あれってシズオカンこと静岡人の風紀なんだろうか? と若干より弱めではあるものの疑う次第。男がテキトーで、ちょうどちびまる子の父親みたいなタイプばかりあう。といっても直接会って2人、メンタリスト入れて3人だから今後、シズオカンのしりあいふえたら推定確率的に反証されるのだろう。

 このZは、僕とOが福島語のニュアンスでやりとりしてたので、具体的には無アクセントの発音に近い部分が多い言葉なのだが(東京弁みたくせわしく語尾を上げたり下げたりしなくていい。シブヤ↑、的なの不必要)、それを小馬鹿にした感じであった。Zは静岡訛り全開なのに調子にのっていた。と評さざるを得ない。Zから「どこに住んでるの」と問われたので僕が「保谷(ホウヤ→、無アクセント)」と答えたら、Zは「保谷って(笑)、君らしいなあ」とかなんとか言ってきた。要は、素朴純朴田舎者人間ダヨネみたいにいいたいらしい。
 が、前に書いた様、僕は北茨城で地理的に首都圏の北端、子供の頃から都内は買い物圏でよく出入りしており(例によって原宿、裏原とか古着屋めぐりからはじまって下北沢シャレオツ服屋がどうだか、渋谷のベイプショップがどうとかだけど。服飾系友達に連れられて)、自分のいくらかいわき化した関東弁である地元発音を東京弁にあわせる義務も必要もねーだろ、と思っていたにすぎず。なんでこいつは他人の発音小馬鹿にしてんだろ、頭悪いのかなと軽くその場で感じたにしても僕はいい人なので、なにもいわず、にこやかに流した。が今にして思っても、Zの自文化中心主義ですらない東京方言原理主義まじりにみえなくもない謎笑いは、なんだったのか。おそらく東北方言全般がそうだが、善良素朴な印象を不可避に与えるので、機械的なり未来ぶる人工知能発音風にホウヤといっただけでその純朴偏見(そして恐るべき事に、この先住系木訥視の点では、かなりの都会化仙台除けば、根本では往々にしてあたっている)が発動したのではなかろうか? 正確にいうと常磐圏の発音だったのだが。

 なにはともあれ、OはこのZを、Zとちょこちょこ話して当時としていたく、あるいは、かなり気に入ったらしく、ZからZの自画像(油彩)もらっていた。この後18の夏休み、僕はひとりで、Oとともに家族がくらすOさんご実家に泊まらせてもらって清流で油絵描いたのだが、O兄弟ひとまとめ部屋の一隅にそのZ自画像が置いてあり、Zがにこりともせずあのわりと細ながい、いにしえに渡来してきたとされる弥生人の国立科学博物館あたりにあるかもしれない復元模型みたいな目で、かすみがかった画面からこっちをみているのであった。

(続き『18歳の自伝 第十章 池袋の或る監獄城にて』