(『18歳の自伝 第五章~第九章』の続き)
今まで色々書いてきたけど、この一連の文章は自分にとって文筆家としてはじめて書くのになんらかの困難を感じるというか、おおごとなのは間違いない。しかし文学史上になにか重大な意味をもたらすだろうという直感もあるので続けているのだが、総じて辛い。
なにが辛いのかを考えているのだが、既に筋ができていて、それは実人生であった事だからなのだが、悲劇になるのが分かりきっているからかもしれない。したがって今やっと18才になったところ辺りだけど、前半部に当たるが、そこを丁寧に、どちらかといえば青春の明るさみたいな観点から書くと後半がやばい事になるので自分を含む読者に心理的落差を生じさせてしまうし、だからといって暗い面だけ描いても全体が暗鬱になるし、中くらいに書いても最後は悲劇だしで全部、辛い。じゃあやめればとなるかといえばそれもできない。ある意味ではそれこそが僕が、あの18才の時に追い込まれていた美術予備校ドバタでの一年間だった気がする。逃げるに逃げれないが逃げ出すしかない空間。しかも逃げられない。自分にはある種の囚われの身の生き地獄みたいなものだったが(全体を読めばきっと分かる)、日本的学校制度全般がそうなのかもしれないし。どっちにしても喉元すぎれば熱さ忘れるで殆ど全日本の教育制度内で育つ人がなかった事にしている、この国の強制兵役的な暗部のうち最もやばい部分に該当している様な気もするし、正直、全体を書ききる自信がないのだが、僕が自信がない時はどういうわけか巧くやってしまえる事が多いので、完成させれば人類史の更新になるのだろう。今日はできなかったな、と思うとテスト満点近くとか多い。この仕事もそれに限りなく近い感じを受ける。太宰治『人間失格』の逆類型での青春記というか。誰も読まないんじゃないか? という不安は全くないわけではないが、内容が内容だけに遠からず人目に触れて、かなり広範に影響する様な気もするし、少なくとも文学マニアの僕からしても、もし自分がこの話の主人公でさえなければ是非とも読みたい内容であるから、続けざるをえない。恐怖感しかないので続けたくないのだが。
なんか新入学の時に、このドバタの説明会というのがあり、東京都のどこかでやった。トウキョウトと読むんではないですか? そうですね。僕がなぜしばしばトウケウをトンキンシティーと呼ぶかだが、これは元来ネット俗語の蔑視語だったらしいが、文脈をずらす為に使っている。多分それも池袋のサンシャインシティーとかいう、シティーシティー威張ってる割に駅からの道順からしてろくでもない超高層ビルの一部屋だった気がする。東口からして嫌いなんだから西口は言うまでもない。何度も書くけど。僕は池袋という町が本当に好きではない。全体が無秩序で雑然で全然美しくない。全然好きでもないマチに1年間、最も感受性の鋭敏だったみたいな一時期に放り込まれ縛りつけられた。それはそれは僕には苦痛であった。結果。最初そこまで東京都とか池袋とかがひどい場所だとは気づいていなかったのだ、余りに無知で。
僕には東京で経験した事は例外なく残酷物語だったが、彼女には違うのかもしれない。僕は椎名林檎が丁度思春期に出てきた第一世代にあたるけども、『歌舞伎町の女王』とか最悪だと今も思う。闇の世界を美化しすぎ。ヤクザさんの自堕落世界である。それに僕は騙されてなかったほうだけど馬鹿高生は騙される。 この世には感受性の鋭い人と鈍い人がいる。自分は完全に前者で、環境からしぬほど影響を受ける。思うにあのスラムとしか呼べない東京都心で毎日平気で過ごせている連中というのは、例外なく感受性がしぬほど鈍い人々と断定してよいであろう。つまりガサツ人間。なので一部の大阪芸人とか向いている。この池袋の環境の最悪さは、もう僕にはこの世の底の更に下にあるレベルで、何度思い出しても嫌なだけじゃなくて、嫌悪感どころか憎悪すらわいてくる。あの東口で公園探してやっと辿り着いたしょぼい、お仕着せだけの小さな、沈んだ、くすんだビルの谷の空間。絶望しかしない。全ての意味で。全生命が。憩いの場というのが一つたりともないのだ、池袋。これは嘘ではない。僕は本気でそういう場所を探していた。しかし一個も知らない。18才がしぬほど傷ついてほうぼう歩いても、どこまでいっても灰色の、今にも中で誰かが発狂しそうな廃墟じみたビルしか出てこない。けど、なぜか和人達はそれをほめる。思うに、池袋に向いている人間というのもきっといるであろう。それは岡村隆史さんとか、2ch文学板でみた平野啓一郎さんとかなのではないだろうか? 或いはユーチューブでみたけどヒカキンとか、会社あった与沢翼さんとかではないだろうか? 僕には一ミクロンどころか一光電子のs軌道分も向かない。僕がどういう人間かというと、自然美では大まかな頂点極めてる様な環境から出てきているので(まじです)、そこと比べてもっと美しい自然に囲まれてでもなければちっとも感動しないし、感動どころかいるだけで苦痛だし、じゃあ建築物は? っていうとこれも池袋のはどれもこれも二流三流で困るレベル。あの芸術劇場の長いエスカレーター。入ってすぐのガラス張りの空隙貫いてるやつ。あれだけだ。池袋全体で唯一の救いは。他に何かあるかといったら何もない。本気で。僕がみた範囲で。詳しくは建築的慰めについて後述するが。しかしいつもあのエスカレーター行き来してるわけにもいくまい。繊細な詩人の感性をもつ的な人間に、いわば鳥の羽ばたきや虫の鳴き声に感激して一首したためるのが日常の環境でうまれそだっている心からの芸術家の部類に、平成時代の池袋は、まあそれはそれは相性が悪かった。つまりに僕に。これはこの文のあちこちで描いてるにしてももう形容しつくしても足りない。
そのサンシャインシティーの何階だかまで行ったはいいが、父母と共にそのドバタ講師と面接したんだが、「バイトはしないほうがいい」と或る背の高い講師が言った。これが今もきっといるだろうから名前ぼかすけどIという講師で、のち僕の担当講師になった。この時点ではそうなるとは思っていなかった。なんでI先生、あるいは生徒(ほぼ女子だらけ)は講師をさんづけで呼んでる事が多かったのでIさんは、そういったか。なんかオカマまでは行かないけどいたく丁寧な言葉遣いで優しそうでもあり、僕はIさんと個人的に相性が悪かったとは思わない。僕も優男の最たる部類、寧ろ女性的感性と再三いう通り。Iさん曰く、バイトに明け暮れてると絵に集中できなくてダメだという。なんか一理ありそうでもあり、教師っぽい存在を普通に信じていた僕の両親はそうなんだろうなって思っていただろう。しかし、これは半分は間違ってまではないけど半分はインチキであった。ドバタなぞ商売でそういっている面もある。多分Iさんは本気でそれで生徒を合格させてきたので、本当にそのほうが巧くいくという経験則で語ってたんだろう。面接時にそれをいうのは親に浪人中、経済負担を納得させるためだろう。だがドバタは中に画材屋併設してんだけどここで猛烈に高い画材買わせるアホ講師が跋扈しており完璧に癒着していた。僕の担当になったIさんは、このあとでも描くけども、人物的には随分ましというか、決して悪い人ではない。寧ろ僕が古今東西で会った年長者としては一番くらいに優しい感じで、釣りが趣味らしいけどいい感じではないだろうか。一度も実作みた事ないけど。だが問題があるとすれば予備校に土着してた事。このあと書く、Tなる友人(ツイッターにいるんだけど実名出していいか分からぬのでイニシャル)が僕にはドバタでできるんだが、このT担当になった講師のほうは、まさに上記の高い画材買わせ系であり、Iさんも似た様な事いいだしてた気もするが僕がスルーしたらなんもいわなくなったのでましだった。一々書く必要あるかしらんけどI先生の性別は男である。性差、性別にやたら配慮した記述せなあかんので段々手間かかる時代になってきたといえなくもないが、ドバタ講師は1人だけ眼鏡女性(芸大院生。ジャニオタだったらしい)で、他は男性。津田大介ならブチギレてくるだろうが単に普通にそうだった。
要は、最初の面接で合格まで一年間、真剣に絵だけに集中して下さいね、それが条件ですみたいな釘刺してきてる割に、あとでわかる中身といったら画材屋でムダに高級品買わせるとか、生徒を通じて親を無限搾取する代物でしかなく、裏は完全に騙しといってもいい。僕は賢いので直ぐ見抜いていたけれども。こうして都内で下宿を探す事に相成った。そこで親友O君とふたりで池袋沿線から探したが、なぜか西武池袋線というので練馬方面に行った。練馬を地名として知っていたからかもしれない。東武東上線は何度も僕には合わないと書いたけど、乗り場すら大層ごみごみ(みごみご)してて避けていたんだろう。ホリエモンは学校の近くに住めばいいじゃんと言っていた。もしかすればそうだったのかもしれない。しかし当時の僕にそんなアイデアは全然わかなかった。なぜなら僕は自然環境が豊かな場所以外に人が住めるもんだなんて想像もしていなかったから。実際きついと思う。池袋内部に住むのって。僕には無理。朝は緑豊かな場所や川沿い散歩できて、夕暮れには浜辺を犬連れてどこまでも歩いているのが普通の世界観で、池袋内部のあのスラム街みたいな住宅地のどこかから毎日、レミングスみたいに出てただ学校と往復するとか僕は両津勘吉ではないので、早々に発狂していただろうと思う。そういう環境だ、西池袋。
ドバタはカタチとしては美術予備校なんだが、近くにミスターが出た創形美術学校っていう専門(専修)学校もあって、ずっと後から最近知ったがドバタも学校教育法上は専修学校らしいけど、要はすみわけられていた。創形のほうは或る小型公園の前にあるんだが、そこには浮浪者ぽいのがいつも屯していた。所が、僕は浮浪者という人々が現実に生きている場面をみた事がなかったので、のち(21才くらいで)調布の多摩川に住んだとき初めて、河川敷の橋の下で暮らしてるおじさんを見て、これ現実にいるんだと気づいた。即ち、18才の時点では、なんか朝から人いるけどなんだこれ、って思っていただけだった。
なんかドバタの画房がなにかで満員の時とか創形のほうで描かされる。そっちにいる或るおじいさん講師というのが僕は大層苦手であった。こいつは見るからに頭が悪い。なのに偉そうに愚にもつかない(無理論のテキトー)指導ごっこしてくるのはそいつ以外でも毎度の事だからウンウン頷いて無視しつつも我慢するが、要はパワハラみたいなもんなんだけど、勝手に人の絵をグチャグチャにしてこれでいいとかいって逃げるし、まぁ本物の業界馬鹿の部類だと今も確信で感じる。で。この創形へ夏期講習だったかなんだかで17か18の僕が通わされた、通ってしまっていた時の事。もしかすると高3の時だったかもしれない。
当時の僕は今と逆だが一人で行動するって事がそこまでなく、少年時代の延長で友達と色んな所行くのが普通だったのに、この時は1人だったので新鮮であった。少年から青少年にあたる17、8の子供が中小都市から出てきて大都会の中心で(友達とではなく)一人行動するだけで新鮮味があるのはそりゃそうだろうけど、この最初の体験からして僕とトンキンシティーのその後を暗示していた。それが朝の池袋シリーズ。ここではこの創形前の公園の事を書くけれども。僕は真面目な優等生タイプだと再三書いているがここでもそうで、講習始まる時間の大分前に現地に着いて(地図頼りに初めて行ったと思う)、その前に公園あるじゃんって感じで、近くにコンビニあったのでおにぎりかなんか買って、その公園のブランコに乗って周りを見渡した。そしたら誰かいるわけです。なんかいるにはいるんだけど、動きがおかしい。というか、なんか最初からいるみたいな感じであり、普通、朝の公園に大人がいるとしてもそれは運動に来ている(通常のいなか町ではあまねくそうである)。したがってここでもそうだろうと信じてやり過ごしていた。そして自分はおにぎりを食べたと思う。正確に言うとシーチキンのおにぎりだった気がするが、他にもカロリーメイト(チョコレート)とか買っていた気がする。これらをビタミンCの飲料(350mlペットボトルに入ってる、大塚製薬系の清涼飲料)で飲んだと思う。朝のブランコで。他の大人(おばさん)もいて目の前散歩して行った様でもあった。そして空を見上げると、ビルの隙間に緑がはみだしているのだが、ほんのかすかにしか見えない。なんというのか宇宙の果てみたいな光景だ。谷底。しかも空気は確かに朝だし一応慰めくらいの植物があるので少々ひんやりしているものの、都会だけにヒートアイランド生ぬるい。その朝のごそごそ的世界観。今考えるとあの周りでごそごそいっていた人達というか、繁茂するなんらかの植物と、隣の道路スペースの間とかにいたのだろうキャンパーっぽい大人というのはいわゆるホームレスの人だったと思われる。だが自分は浮浪者という存在を知らずにいたので、その人達の間でブランコのっておにぎり食べたのだ。
そんでその講習を受けるのだけれども、講習ってより加齢臭お爺さんに無理やり、絵をグチャグチャにされ、それを我慢して絶えず修正する作業である。そのお爺さんの絵が巧いかとかそういうレベルではない。単なるデッサンとみても全然巧くないし、寧ろ修正不可能なほど木炭紙の目を潰されてしまう。裏を返せば、僕の高校美術部の先輩(さきに書いたリヒターファンのCさん)とか磯上先生とかのデッサン力が尋常じゃなく高すぎただけなのかもしれないけど、この創形おじいさんのデッサンはレベルでいったら20くらいであり、Cさんが50くらいなら磯上先生は96とかだろう。それなら僕に講習にならない。
前も書いたがCさんはある夏休みだったか秋だかの頃、僕が美術室で絵描いてたら磯上氏を訪ねてきて、懐かしい~とかいって実演みたいに僕とO君らの隣で、僕らと一緒に石膏像の木炭デッサンやった。2日でどこまでやれるかとか相当昔の芸大入試みたいな形式でやっていたが、これは驚くべき質であった。
17才の時その強烈な実力者(2個上の先輩)を隣で目撃したので、この創形お爺さん講師の無能加減にはなんでこの人は僕に命令してくるんだろうって感じで本当に不満であったし、そもそもそのお爺さんがいいと思う絵と僕のいいと思う絵も更々違うし同じでありよう筈もない。なのに全部上から目線である。だからこのお爺さん講師に目をつけられないよう、僕はなるだけ目を合わせないようにしたり、折角描いたのをダメダメとかいって適当に消されないよう壁際にわざと陣地張ったりしていたのだが、わざわざどれみせてみろとか言ってイーゼルずらしてじろじろみるや、又、ランダムにいじったり消してくる。壁際に張っとけば後ろに回りこんでみれないので、そのお爺さん講師が自作に介入する余地はない。ここまでいじましい努力を重ねても無駄。僕は大層絶望した。第一、今だからこうして自信を持ち自分の当時の行動を説明づけられるものの、18だかで業界の禍もろくに知らず自信喪失期に消されるのはきつい。いわばこのお爺さんは純粋培養された間違った美術教育もどきの権化みたいなキャラで、リアリティ伴った写実画が目的なんだか、その他の抽象表現が目的なんだかも全然理論で分かってない、とことん無雑な本物の馬鹿が地位と権力を子供相手に振り回してしまっている実例。しかも金儲けで。親から搾取で。
じゃあ僕がどうしたか?
この創形の唯一の美質は屋上にあった。僕にはだが本当に唯一だと僅かにいて思った。冷房効き過ぎで寒いし。縦に長いからエレベーターと階段で移動するしかない。しかもそのお爺さん講師を典型として、指導まがいが微妙水準。屋上も微妙ではある。隙間からしか街が見れない。創形の屋上はコンクリートの囲い庭みたいになっており、四面にはコンクリート忠雄の壁みたいなのが立ち並んでいる。よって基本空しか見えない。だがこのコンクリの壁には僅かに隙間があいている。コルビジュエでいうピクチャーウィンドウですらなくて、自殺防止の風穴みたく、腕入らないくらいの隙間。僕は完全に絶望していた。監獄の中から外を見る。そこは夏の日、遠くに池袋の高層ビル群がみえた。
あの17の頃O君らが2階くらい下の大山駅ウィークリーマンション廊下で蛮カラ焼肉やってる最中にそれにすら気づかず見た、ほのかに輝くビル群が、この時には遠くの別の敵が住む監獄城みたいにみえた。