2020年8月16日

18才の自伝 第十六章 育成キャラ選択時の元気な男の子評

『18才の自伝 第十五章 画家の血を引くT』の続き)

 最早書くのがこわくて仕方がないので、途中でいきなり中断され、執筆保留されるかもしれないが、今考えたにこれがリアリズムに基づく自伝だから本気でこわいのであって、文芸手法でいう「信頼できない語り手」式に最後の部分をメタフィクション化し、僕には精神の外科手術的に直面するのが辛すぎる事象を、なんらかの知性をつかった方法でぼかせば、なんとかなるのかもしれない。しかしその部分をきちんと摘出しないとこの大変手間かかる作業全体にも意味がない気もする。
「信頼できない語り手」とは、例えば芥川龍之介『藪の中』とか、サリンジャー『ライ麦畑のキャッチャー』みたいに、途中でものがたりの語り手たちが相互に矛盾したり、筋を破綻させ、結局、お話の真相がよくわからないまま終わるみたいなのを指す。テレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』もその部類。またこの様に、語り手自身が、文や劇の筋書きを作る制作陣の目線からあれこれ言い出してしまう様なのをメタフィクションという。メタとは「上位の」「超えた」などを意味するギリシア語の接頭語、フィクションは作り話のこと。どの作品だったか忘れたが春樹も、ある小説の冒頭で筆者として語りだす。
 この種の上位語りを今するのは、この自伝の形をとったものがたり全体が終わるとき、読者らが僕のここで語った全てをそのまま事実の羅列として確定事項にするのは、恐らく危険だ、と知らせる為である。色々な理由はあるが、人は主観で物事をみるので、自分の手記が完璧な再現と思うと問題があるからだ。それにもかかわらず、僕は少なくとも宇宙の中の18才の自分をできるだけ時を経て客観視できる段階にある。記憶も、これまでの記述でわかるだろうけど、十二分すぎるほど鮮明に残っている。それらは僕にとっては感覚素も含めたら無限すぎるので、文字化できるのは本の一部。抽出作業が創作的選択眼となる。

 本文にもどろう。
 僕は保谷駅前でTとバッタリ遭遇事件のあとすぐ互いに別れた。Tは駅の北から、東のほうへとご両親らしきかたがたと歩いて行った。僕の下宿は、西のほうだった。
 保谷という街は、偶然住むことになったが、東京都といっても練馬より西にあって、ところどころ田畑が残っている環境。なぜ僕とTがその場で、かなり奇跡に近い確率で遭遇する事になったか? 恐らく僕もTも、自然美が残っている条件に慣れていたので、雰囲気として過密都市化が完了していない地域に足を止めたのかもしれない。僕の場合は、石神井公園とか大泉学園あたりから徐々にそれを感じていたが、偶然保谷になった。

 そしてあの初日になる。ドバタに着くと、「親が画家事件(前章末尾に記述)」のあった1号館アトリエに集められた。恐らく油画科の全生徒がそこにいた気がする。
 僕はそこで生徒全員らの中で爛々ランランと目を輝かせていたろうと思う。なにしろ前夜はろくに寝ていないのだし、練馬親父怒鳴り事件(十四章)もあった。アトリエ用の横置きにもできる四角い木製いすに座らされた生徒衆の前に、講師陣が並んだ。サンシャインシティーでの説明会の時いたIさん(講師。十章に初出)もその中におり、なんか自分のほうちらっと見ていた様でもあった。面接時の親の感じなど軽く憶えていたのかもしれぬ。そんで、なぜかそのとき全員が自己紹介させられた様な気もする。さもないと次の事が説明つかない。Iさんはこの最初のオリエンテーション時に、勿論既にIさんはそれを言った事を忘れてるだろうけど、僕を具体的に名指しして「元気のいい男の子が入ってきて」云々(やる気出るなぁ的な文脈)といった。どういう事か?
 ドバタ油画科は担当講師制みたいになっていた。浪人生のうち誰を選んで自分の担当にするか、講師が指名できる様だった。それでIさんがなぜ説明会時に、僕の両親にバイトはダメといったかも説明がつく。要は見込みありそうな弟子を取る、そして一年以上かけ育成するゲームだったのだ。

 今も「東京芸大83名合格6年連続全国No.1! 」とサイトのトップにも、本館にも垂れ幕とかかかってるだろうけど、美術予備校の講師業とは、有名芸大美大への合格者をいかにふやすかのゲームをしているのである。

評価関数は「合格者数」と決まっている。
 そこでIさんは、毎年合格者数を量産しているプロゲーマーであった。釣りが趣味だけに用意周到に知的かつ戦略的でもあり、僕がみたかぎり彼は説明会時点で目をつけている。親御さんを確認し、家庭の経済力を見極めつつ、生徒の資質と短期的育成可能性をみこし、このオリエンテーションで弟子選択する。なんで自己紹介らしきの除けば、まだろくに(というか説明会時にも僕は黙っていた気がする)話してもないのに僕に、元気がある男の子評をしたり、どうみても明らかにひいきじみた言動をしているのか? これもちゃんと戦術的理由があった。Iさんから直接聴いたわけでもないが、ほぼ推測可能かと思う。二章で初出の「リヒターファンなデッサン巧者の先輩、芸大生かつドバタ講師Cさん」。彼と同じ高校だという事を、説明会時にIさんは確かめていた様な感じがあった。CさんとIさんは既に、もしかして指導関係かそれに類した相互知己があったのだろう。
 つまり同じ高校同じ美術部から同じドバタで芸大めざしてるコースで、既にCさんという合格例出してるんだから似た方法論で今度も行けるかも、とパターン認知で思うだろう。僕自身も通常、とてもとても大人しい感じの人柄なので、裏に秘めた情熱マグマどころか深層宇宙があるとは誰にも外面わからない。というかCさんにこの後、ドバタで直接教わる事があったのだが、「(担当は?)Iさんね、知ってるしってる」みたいな感じの事をいっていた。と思う。Cさんはどこか軽い感じの人柄で、正直、僕はあんまり親しめなかったが、I先生がCさん後輩の、おとなしめの普通系優等生ぽい外観だけみたら「これは育てられそう」って思う。
 これで理論的整合性がとれた。しりあいでもなんでもないのに
「元気そうな男の子が入ってきて僕も嬉しい」(実はこれがそのせりふ)
で周りの講師陣がそれ聴いてワハハとかどうとか、最初のオリエンテーション時にIさんがみんなの前で、どうも僕の自己紹介ぽい照れ発言のあとにいってきた理由だ。

 まぁ、こうともいえる。『実況パワフルプロ野球』とか『アイドルマスター』(やった事ない)とか、なんか育成系ゲームと同じ方式なのです。ドバタの内部構造って。但し、使ってるのは生身の人間。よって犠牲も数多あまた出る。この場合、僕は犠牲以外の超例外的な生徒だった。その事はこれら全自伝を読み終わるまでに読者も悟る。
第14章