(『18才の自伝 第十四章 保谷の闇夜とストロボライツ』の続き)
顔をあげると周りに乗ってた大人達も凄く冷酷な目つきで、目を満月より丸くした一青少年を、道端にすててあるコケシみたいな横目がちに、みるともなく見遣っていた。通常、僕の生まれ育った文化圏(常磐圏最北部)でこの種の場面では子供を大人一般は斯くほど大人気なく大声で怒鳴りつけたりしない。万が一(一度も見た事がないが)怒らねばならない場面であれ、公には子供を子供として扱う。例えば「キミ(おばさんならボク)? あのね悪いんだけど、もうちょっと音さげてくれない?」くらいのニュアンスで。
その上、電車内で音漏れしたのなら確かに問題があったのだろうけど、実は高2と高3のあいだころからそのヘッドフォン使ってたのに、しかも通学電車内でずっと使っていたのだが、うまれてきて一度も注意された事がなかった。湯本あたりからいわきまでラッシュはやはり満員に近いので大人がすぐ隣に座る事もあったし、当時も今もほぼ同じ音量で似た様な曲を聴いていた。スーパーカー。
なお電車内で聞こえる騒音レベルは当時ほぼ、西武池袋線快速も、常磐線普通列車のいわき磯原間も、同じくらいと感じた。
その朝は前日の夜に、心の隅まで闇に侵され殆ど寝ていなかったにせよ。そしてこの過酷すぎるおしくらまんじゅう系土俵際監獄から瞑想の中で現実逃避する為だけにでも。通常より少しだけ大きめの音量に上げた節があるにせよ、そこまで大音量で漏れていたとは実際には考えられない。というか、僕はこの点でも相当気を使う人間で(ここまで読んだらそうだと思うでしょう)、もともと聴いてる曲ばれたら恥ずかしいので、音漏れてないかわざわざ指でヘッドフォン耳当て部塞ぐ様にして普段から確かめたりもして、いつもボリュームは完全に安全域の、最大音量半分以下にしてきていたほど、スーパー超ウルトラ激ヤバ思いやりキャラなのであった。孔子でいえばそれ恕か。己の欲せざるところ人に施す事なかれ。
であれば、この猛烈に怒った短気は損気おじさん(Tanki wa Sonki Ojisan略してTSO)はなんだったのか?
それって本当に凄く音漏れしていた可能性(極めて低い)を排除して考えられるのは2つくらいある。一つは短気は損気おじさんことTSOも、満員電車でストレス溜まりまくっていた。つまり八つ当たりに都合がいい、顔伏せおとなしげ青少年みつけたので、モラハラ型マウントした。もう一つは、音楽の趣味が合わなかったから新聞よみつつ僅かにきこえるエレクトロニカなテクノロックにイラついた。そして最後に考えられるのは、高ストレス社会東京の池袋付近に通う練馬系サラリーマンが、他人の子供を冷酷無慈悲に道具視する、悪い意味での都会的他人行儀。その青少年が不安で今にも押し潰されそうだろうが、さらに、異常な労働機械輸送船の中で悟った人みたいにストロボライツ瞑想してようが、自分のスポーツ新聞かなにか読むのに邪魔だから、不躾な言葉の暴力で一生残る傷を平気な顔で、柔な心につける。そう、これが段々と僕が気づき始める荒んだ大都市の極みというべき東京都の日常光景で、飛び込み自殺者が電車を毎朝に近い頻度でとめるたび、車内で全員お揃い灰色か真っ黒服を着た男女いりまじった会社員(自称社会人)らは一斉かさもなければ疎らにチッと舌打ちをし、腕時計みてイライラと地団駄踏む速度をあげるのだった。中に買い物へ行く主婦みたいなのも座っていたりするが、この場合、大抵眉を顰めて眠ってるんだが、自殺でとまると一瞬目をあけるが迷惑そうにまたしかめっ面で目を瞑る。この間、10秒。そして人身事故の確認をしております、ご迷惑をおかけしておりますアナウンス。短損おやじなんざ何度となく、この驚嘆すべき自殺ストップを経験していたはずだが、もはや良心は麻痺し、心で手を合わせる事など想像もついてない。そこに同類(サル目ヒト科)への同情心はかけらも残っていないのは、あのなんの慈悲も恕も目に宿っていない鬼の顔つきでよくわかった。
尤も僕は素直なので、その場で本当にこれは音量でかすぎたのだろうな、満員電車だけにもっと小さくしなければならないのだろうなと、大いに反省し、2つ以上の工夫をその後開発していく。その1つとして僕が都内の電車で音楽を15%くらいの音量で聴く様になったのはこの為。だがこの朝にそんな余裕はなく、僕はしゅんとしてヘッドフォンを首から取ると、デイバッグにチャック(2つついてて中央で閉じるタイプ、両側にあけられるが、その片方)をチーと開けて青味がかった円盤2つがネック部プラスチックで繋がれた品川(ソニービル)発オモチャみたいなのをこそこそしまい、またチーと閉じた。相当ガタゴト鳴るだけでなく地下に出たり入ったり凄く轟音がする西武池袋線上で、一刻も早く、この動く囚人のジレンマが終着で解消されるよう、目を見開いたりパッと閉じたり、お地蔵さん心ここにあらずでその朝の僕は、怒鳴り声をリフレインするあの大山駅前『Amnesiac』譲りの建設音環境ノイズ(駅に着くたび大音量で響くビル建設や工事音)に、胸の奥がいたく磨耗するのであった。
都会人はあの凄まじい雑音の中で暮らしているのに、流麗な歌詞を電子和音で重ねた現代音楽には罵詈雑言を吐いて行く。そして責任も取らない。当人が聴きたくないから仕方がない。だが自分は、さも自分の愛する音楽がとるにたりない爆音で掻き消され、口汚く暴力的に全否定された様に感じた。隣の人なんか言ってるなって気づいてからヘッドフォン外した途端、怒鳴られ謝った大体5秒くらいの一瞬で。だからあの朝にきこえた「つぎはいけぶくろ〜いけぶくろ〜」のアナウンスを、落ち着く場のない笹舟島流し式に、大都会につれだされた子犬ばりのおめめぱちくりでギョロギョロ周りをみたり目を閉じたりしながら待つ、遣瀬ないおののきは、心臓にわるく焼きつけられてしまっている。次々乗り込んでくる通勤客らのどこにも、フルカワミキがつくりえていたとおぼわしき慈愛の隠れ家などない。短損おじさん(TSO)はさっさと降りた。池袋に着く前だった気がする。彼が全否定したかけがえない音楽は、僕には彼の一生にとってどうともないあの一幕よりよほど重要な救いに違いなかったのだが。最強の慰めの歌も今や、心底にはもやもやとした(嘘だろ漏れてないと思ってたんだけど)感が居残りつつも、唯の子供だけに、僕は甚だしょんぼりしてしまい、周りの大人達は相変わらず冷たい目で死んだ街と等価に自分を見下しているしでデイバッグから(音がいいのはいいものの、かけてて耳が痛くなるので大して気に入ってない)ヘッドフォン取り出すわけにもいかず、紳士の子だけに無謀な蛮勇もなく、聴くことができない。
ドバタへ行くには2つ方法がある。椎名町駅で降りてそこから徒歩か、池袋駅から徒歩かだ。僕のルートではどちらかに相場が決まっていた。
どっちの道のりでも、駅からドバタまではそれなりの距離で、15分以上は歩く必要があった。磐高もそれと同じかそれ以上の距離が駅からあって、生徒はみな通学路を重い教科書を背負っていくので健脚化する。なのでそのくらいは平気なのだが、ドバタまでのルートは決して美観地区とはいいがたく、少なくとも突然降り始めた春雨の音にすら深々と動揺する詩人の感性のこの僕にして、ただの一度も通学ルートの風景に感動した試しがなかった。もしかするとなにかを見逃してたのか? なぜか途中に微妙に小汚い健康ランドまがい銭湯とかあったけど、江戸の下町っ子でもないので当然スルーしていた。何度おもいだしても自分の美意識には、特に街づくりの失敗例、都市景観の醜さの典型例としてあの行路が刻まれており、つまりは無秩序で乱雑で適当で、ろくに建築美にあたる都市計画の整合性がないといってもよく、かつなんだか全体がのっぺりと特徴がなく、外観からは決して超一流ともいいづらい住宅建築で埋まっていた。緑地公園のたぐいもドバタからお昼休みにいける徒歩圏内になく、或る意味で自然系の憩い要素皆無。何度かんがえてもよくあれだけむごい人工都市のどん詰まりに自分は1年もこの身を携えていたものだ。沢山住宅があるので、居住者一般は、もしかしてあの環境が住めばみやこの理想郷と感じ、生きているのかもしれない。逆にどこがいいと感じているのだか、自分にはさっぱりだ? 一応、ビルに見下される形になったとはいえフランク・ロイド・ライト設計の自由学園も近くに鎮座している。だが、飽くまで僕はだが、一切あの街に親しみを持てず終いだった。不本意に浪人した、教育制度に敷かれたレール的に半強制で足踏みさせられていたがゆえの、心の暗がり、絶望感の投影というだけではきっと、ないだろう。テレビドラマ『池袋ウェストゲートパーク』は僕がみたかぎり演出が堤幸彦で神作品に近いと思うけど(石田衣良の原作未読)、まさにあんな感じなのだあそこって。暗く湿っていて。全然たましいの救いとなる美しい景色というものがない。あの芸術劇場となりのラブホ街みたいな通りのなんともいえないじめじめとした都会の闇、あるいは病みを結晶させて有る風紀のおちぶれきった汚さ。自堕落さ。よくてまきちらした汚物爆弾、ゴミ箱の中身を少々高級化した世界観。これは池袋在住者の名誉のため寧ろラップ調に褒めてるつもりなんだが、青春を送るには世界で最もふさわしくない街の一つであろう。
だがそんな街に僕はおりたち、じっとじとと、てくてくと。歩を懸命に進める。あの僕には遂に消えない心の暗部となるだけの、冷たいコンクリートでできた、住宅地の外れにレイリー散乱の整然たる乱雑度にすら達せず覆水盆に返らぬだけ不便極まりなく点在した、よごれかけたクリーム色のタイル張り校舎へ。
ところで、このいよいよ入学して初登校時どばたの忘れえない光景を語る前に、のち、重要な役割を果たすある友人との、意外な出会いがあった。われわれの私事の尊厳を最大限守りつつ、彼について語らずには、自分の18才全体像は普通のコーラかと思ったらゼロコーラだったアステルパーム風味になってしまうだろう。ほぼ確実に。
その事件(というほどでもないけど)は、僕があの残虐非道イライラジジイに、線路上を等速直線運動中、練馬すぎたあたりだったかでいきなりブチギレられる瞬間より少し前、つまり初登校前日付近にあたる。僕が部屋のひとすみに今もこうしてねている黒いパイプベッドくみたてる、それよりさらにもう少し前の、少々午後も傾いた時間帯であった。
保谷駅の線路を超え、下宿のほうへ、1日だけ僕を送り届けに来ていた両親と歩みを進めていたら、向こうに同じよう、両親っぽい存在とともに歩んでいく、メガネかけた坊主頭がいた。
(その場所)
あらぁあそこにみえるは、もしやと思い、彼らが横断する道路の一方の歩道から僕が声をかけたかなんかしたら(向こうも気づいていた)、案の定、ドバタの直前対策とかいうのにいた、ある青少年であった。毬栗頭のこの男、このありよりのあり伝記内でさきにちらっと出たけど、中盤から後半で頻出するから、敢えて見過ごされてきたTという人物。
「あ」
とかわざとっぽくTがいい、僕が保谷なの? とか聴いたら、
「あ、うん」
とかいう。これがTの流儀で、全体として坊主頭もだが、身のこなしがなぜかいくらか仏法僧じみている。無口系で言葉は決して流暢ではない。僕からみたらだけど(彼にすると心外なのかもしれないけど)ドラクエ3なら男僧侶であり、ドラゴンボールならクリリンみたいなもんだが、時代は過ぎ去りその喩えも通じない。自分はこの人物はなんとなくだが、重要人物なんではなかろうか? と全く思わなかった、ともいいきれない。要は、あれー同じところに住むなんてとんだ偶然あるもんだ、にゃーと見えただけだけど。吾輩は猫みてーに。名前はまだないみてーに。自分的には小3だか4だかのとき教室の後ろに黄色い表紙のそれが置いてあったから面白おかしく読んだまま二宮金次郎みたく(調度、通りがけの校門のところに銅像あります)持ち帰ってもまた読んで、いえに置きっぱなしにしててもう時効なんだかわかんないあの単行本だが。図書館の本なんだろうか? なぜクラスの後ろの「なんでもスペース」みたいな同じ学年の全クラスつながってる北茨城市立精華小学校のあの部分の本棚で、将来の猛読書家の訪れを待っていたのだ?
保谷駅前(床屋の前)での遭遇事件からときは1か月ほどまえにさかのぼるが、T君は、直前対策でみながイーゼル何列にも並べて渡されたモチーフ手に持って描くデッサン課題が出たとき(いわゆる芸大一次試験の対策)、僕がどんなもんじゃいって顔で、全員の作品を夜間コースの時だったかの休憩時間に、ぐるりぐるりと、くるりと(タモリに今はなき昼12時のテレビ番組「笑っていいとも!」内でなぜか売れるよ! とか半新人扱いされてた、昔からいる京都のしにせバンド、とは一切関係がない擬音語である)。一巡していく中で、初めて鉢合わせた。
Tは僕がデッサンマニアと思ったか(確かに当時まじめに研究していた)、ジロリジロリみんなの全作品一個ずつ自分が一言も言わず見て行っていたら(休憩時間なので、一部のまったり系雑談女子とか除けばみなほぼ全員がアトリエの外に出て行っていて、椅子の上に残ってないから観易い)、彼自身のデッサンの前でなぜか待ち構えていた。遂に順番がきて僕がその鉛筆で描かれた紙の上の濃淡もみてたら、彼は憮然と1メートルくらい隣に立ち、
「親が画家なんだ」
と言った。これ本当です。彼から言ってきた。聴いてもないのに。しかもあとからわかったが、画家だったのって彼のおじいちゃんである。芸大でて福井のご実家に帰り、そこで高校教員をしながら、おうちで絵を描いてらっしゃった。それは偉大な画家たるには十分すぎる条件であり(磯上参照)、おそらくおじいさまのご年齢的に学徒出陣を経験したか、それをくぐりぬけたかどちらかかどっちもかと想像される。有名な話で芸大油画生は学部の卒業研究時に自画像を芸大へ提出する。村上隆のなにかにびびってる芸大時代の自画像も僕はみたから、日本画科でも同じくやってんのかもしれない。で、戦争に駆り出され散った学徒の自画像だけ残っている。T君のおじいちゃんはおそらく、定かではないが、その種の同級生の戦死をきっと経験してんじゃなかろうか、と思う。一度は死を覚悟した人間が、偶然生き残ってから絵に向かう時、フランシス・ベーコン作品じゃないけど、ある深刻な心の傷をなんらかの仕方で反映してしまう可能性が十分あるだろう。それだけ、長らく創作活動を続けた彼の祖父は、なんらかの意味で、生涯の仕事を続ける動機があったに相違ない。別に戦争なくても、カネ稼ぎと関係ない純粋絵画の仕事したかもしれないが。
なぜT君が、僕と最初の一言を交わした時、敢えておじいちゃんといわず、親といったか? T君が作家としていづれ歴史化された暁には、かつ僕にもなんらかの同時代性らしきものが充てがわれた暁には、曙には、初日の出には。僕なりの論考をT作品集の巻末解説に数ページ載せたいほどである。それだけT研究者には興味深い点だろう。僕以外の誰かも彼の思春期、青春序盤の一時期をごく身近で目撃していれば、例えば僕の高校からの親友O君ものちTと親しくなったのだったが、むしろTと偶然同じ街に1年間住んでいた僕が、T18才時点でのTの動きを一番親しくみていたはずなんだけど(これは思い込みではない)、とかく当時の友達にはT心理からみてとれる彼の作家性のなりたちがきっと、重要な角度から分析できるはずだ。
いづれにしても、僕は素直なだけでなく素朴な人間であって、T君が僕にそう(親が画家発言)いった時、へーとか言って普通に信じていた。実際そんなもんだったからいいんだが。そして、なんで彼がそう言ったかなんてのも、直感では色々見抜こうと一瞬探ってはいたものの、さほど知性をつかって深く考察していなかった。なにせT君について情報不足で、その場でデッサンみるかぎり、まーそんななのねって感じで、超絶技巧を駆使していたというわけでもなく、普通程度にうまかったと思う。そもそも親が画家発言時点では――このヒト東京にいて然るべき、いわゆる文化階級なるやつかな(脳裏の片隅に小沢健二・小澤征爾)?――と僕は思うともなく感じていた。俄然あの俗物見栄っ張り煉獄でそんなガチ系存在まず確率的に遭遇率ひくすぎてみたことないんだけど。残念ながらというべきか(誰にとって?)、どうもむかしから僕は権威なるものに滅法強く、肩書きや地位に全然騙されないほうらしいので、この時も僕以外のだれかに同じこと言えば「へぇそうなんだ(内心びびりながら)、すごいね(敬意)!」、くらい返したんじゃなかろうか。京都人なるものにだけは通用しなくてなんらかの嫌味入った態度、「(にやにやしながら)ふーん(笑いこらえる)」くらいで返されたと思うが(なおあとで京都系キャラ複数出てくるが、そのうち我々みなと仲良くなった或る友人1人を想定。ちなみにこの記述は嫌味ではなく比較文化論です。もっとずっとあとで2ch文学板綿矢スレッドでとある事件に巻き込まれるまで、この時点で僕は全然、ミームふくめそこまで京都嫌いではなかったし、どっちかといえば教科書などで洗脳されていて好印象ですらあった)。
おそらくT君は、現役芸大入試前夜に不安だったのかもしれない。僕が間違ってなければ彼は芸大一本だった気もする。滑り止めの私大が視野に入っていない。つまり、ある種の自信があったのだ。俺なら当然入れるでしょ的な。僕の1メートル隣に仁王立ちした当時の彼のあの完全に伸びた背骨を支えていたのは同門の誇り高き祖父で、厳しくも温かな指導の元、いよいよ本番直前になってみずしらずの自分へ、名門の俺はおまえみたいな馬の骨とは違うんだぜ、なに偉そうに全員の作品無断研究してんだバーロー、とまではいかない的ガンつけだったのか。漫画『ドラゴンボール』でクリリンが最初悟空にそういう対応するけど(確かに当時でさえ天下一めざしずんずん前にでていくタイプだった僕だが、ゆえに全員の作品から学べる点がないか自主的かつマメに見て回っていたのだが)。それとも、自分の絵は画家遺伝子か名のある一流芸大ミームひいてんだからどうだ、一等凄いだろ(いや俺はすごいはずだ……)、的な、あの評価されざる思春期の自己同一性ゆらぎを打ち消す、選良主義的差異化の自己説得だったかもしれぬ。ただなんとなくいってみただけか。多分、彼はあの現役時点では芸大おとされるとは想像だにしていないだろう。僕もしていなかった。そのあたりはTに直接聴かないとわからないし、もう彼のほうは、あのどばた1号館入ってすぐ右一階の、一番大きなアトリエで、現役の時のある夜だかに自分から僕へ声かけたとか、忘れてそうな気がする。僕の記憶力がよすぎるだけなのだろうかもしれないが。