(『18才の自伝 第十三章 椎名町99円ショップ階段でみた地上階の光』の続き)
なぜわざわざ時系列をすこし遡ってこの店について触れたか? これはちゃんと(ちょっとした)理由があって、僕が保谷の水色下宿に居を定めてからも、度々椎名町駅前のツタヤ行ってたからだ。
ほかの人はどうか知らないが、自分は音楽を聴いていない時がないくらい音楽が日常の一部であり、たまに自分でも作るけど、絵の隣接分野なのもあるが研究的興味も含め、魂の救いレベルに重要視している。しかし僕の好みは総じて近現代音楽に偏っており、西洋古典音楽は全部ではないが余り好きではない。同じ事は絵の好みにもいえる。僕は全ての絵でも一番ウォーホルが最高級に好きなほうだけども、いわゆるイタリア・ルネサンス絵画とか、例えばベラスケスみたいな古典派(後世が勝手にバロックと名づけたらしい)の絵も、正直全然好きではない。当時の意義は認めるが。自分は前衛性に惹かれるのだ。なので、全ての批評家でも最も重要だったのが前衛を擁護したグリーンバーグと感じているくらいで、小学校低学年でサッカー少年団入ったとき自分ともう1人だけどんどん前に出るからフォワード(のちウィング)にされたけど、勇気を持って前に出まくって行く美術しかいいと思わない。基本的にだけど。
ダヴィンチことヴィンチ村のレオナルドは当時としては前衛だった。だからルネサンス絵画でも最高度に重要だと認める。しかしそこからずっと時代が下ってピカソら中途半端な中衛キュビズムからずっと前に出たモンドリアンだったり、抽象絵画から更に前に出たともいえるウォーホルだったりが僕には高評価なのはこの為。グリーンバーグ説ではウォーホルらポップアートは大衆・商業芸術と混じってるから中衛にすぎず、真の前衛は純粋に絵画的な探求をした抽象表現主義(はじめカラーフィールド絵といっていた)側に求まる、となるが、自分はこの考えを脱構築し、模倣性に立ち返った点でポップアートも或る意味前衛と思う。
で、18の頃、自分がなにを聴いてたかというと、高校の時から一番前衛的だなと感じていたのがスーパーカーだったし、当時出た『HIGHVISION』なるアルバムなどそのツタヤで借りていた。よってこの曲たちが僕と西武池袋線を通じて、池袋~練馬~保谷間の光景を完全に繋いでいる。
保谷駅から水色下宿まではチャリ(自転車の俗語)か徒歩。チャリは、この後、東京都調布市多摩川で盗まれる、無印良品の僕には凄くいいやつだった。旧バージョンの折りたたみので、ベージュのじゃなくて無塗装の銀色だった。それなら自家用車のトランクで実家にも持ち帰れるのでそれにしていたのだ。当時、携帯音楽はCDウォークマンかMDウォークマンか元祖ウォークマンかで聴く時代で、まだiPodも出ていなかった。自分はこれらを使っていたが、特に単3充電式電池(EVOLTA)2つをいれなおせばいい紺色のCDウォークマンを使っており、ここに『HIGHVISION』CD-Rに焼いたの入れて、あの電車に乗った。
18才の自分は、あの水色下宿から出て或る新春の朝、保谷駅ホームに列を成さざるをえないのに一度満員で見送るだけ、意味不明に混んでる快速電車なるものに初めて乗ったのだが、地元の常磐線でもラッシュはそれなりに混むけどその時は都内で常態的なようぎゅうぎゅう詰め超え満員で、隙間に漸く座った。精確に言うと、池袋ドバタで最初の授業前、かなり早めに出て、あまりに混んでるので一度列にいながら見送って、次の電車に乗れる先頭付近に並んだにもかかわらず、乗れたはいいが恐らく練馬あたりまで車内で立ち尽くすしかない超満員であった。最初自分は知らなかったが東京とは毎朝がその地獄だった。その朝、自分は下宿から初登校だったかもしれない。それでまさかそこまでしぬほど(というかおしくらまんじゅう級に)混む電車なんかがこの世界に運行してるとも思わず、平気な顔でサラリーマンOL類が手を乗車ドアの上につっかえ棒みたいにして無理やり扉が閉まるとき体をねじ込むとか文化衝撃だった。唯でさえ自分は繊細である。が感受性が大変鋭敏なだけで別に精神惰弱ではない。したがって苦痛を普通の都民さん達(あの苦役に耐えてるんだから余程鈍感に違いない)より甚だ受けまくっているが、苦痛度100点マックスでいえば97点くらいでずっと我慢して乗っていた。そこでやっと目の前に一席空いた。自分はそれは天の救い(蜘蛛の糸)みたいなものだろうと解釈し、いそいそ座るや、動きづらい中ごそごそとデイバッグ(友達に貰った今も使ってるメーカーOUTDOORの青いやつ)からCDプレイヤーに繋いだ当時最新型のソニー耳かけヘッドフォンをとりだし、コードの途中の▹(プレイボタン)を押す。そこからは『STROBOLIGHTS』が流れた。別に意図した訳ではない。自分はもうストレスの限界値に触れかけているのでできるだけ周りの喧騒でもない、身動きの取れない収監的光景を忘れようと目を閉じた。
曲は2愛、+4愛とテクノ的にフルカワミキが繰り返しだした。
自分が最初にスーパーカーをみたのは、磯上氏が「ライブ行ったことないの? 行けよ~」とか高校の時言ってきたので、ひたち海浜公園のロック・イン・ジャパン・フェスティバルに僕と友達のM君で行った時であった。それまで自分はよくいるJポッパーでミスチルどんなか、と思っていたのだが、スーパーカーが半端なかった。ほかのいかなるバンドともスーパーカーは違っており、僕が行った時は昼頃に暑い中で演奏したんだが、曲の前にも後にもMCとか一切やらず、出てきて演奏して帰る。愚直に音楽を追求しているとしか目せない独特の存在なのがわかった。まぁ青森人ゆえ一般論として例によって寡黙、だとしても涼しげだった。それ以来、自分は彼らが演奏していた曲の入った『Futurama』という傑作アルバムを(確かいわきの駅ビル内にあったCD屋で)買うや、これを恐らく10万回以上は聴いた。計算すると重力場的におかしいのかもしれないが、主観時間としてはそんなのだ。僕はこのアルバムを本気で神の次元と信じている。僕が『Process』という絵を描いた時の逸話はまだ詳細書いてないけど、超異常に集中したので休日も美術室に忍び込んで、ヒンヤリとした夏のよく小説内で頻出するリノリウム? と呼ばれるのだかの緑っぽい床の上に、CDプレイヤーに青い四角のM君の簡易スピーカー繋いで、ずっとそれもかけて描いていた。これだけではない。僕の『Futurama』熱狂ぶりは。これは僕の思春期の総体を、心の中身として最も微細に穿って表明した作品ともいえ、無論僕が作ったんじゃないけれども、仏教僧でいやあ般若心経みたいなもんである。通学電車の行き帰りでも家の1.5段ベッドの上でも聴いた。
そこにしてこの曲であった。ストロボライツ。そりゃいいでしょ。何とか心の安全基地に帰れる。愛足してんだもん。フルカワミキちゃんが。ちゃんていうか年上だけど。フルカワミキさんが。
でもね、この時トラウマまでは行かないけど、なんか声する。目を開けると、隣のおじさんがなんか言っている。で、耳かけスピーカー繋がってるタイプなので両手でどっちも外したはず。で、くりくりしたお目目でですね、クリリンじゃねーが。まるでね、ノースアンバーランド国立公園のすみの、小川流れる小さな街沿いの一本の木からおりてきた、今にも逃げ出しそうな、どんぐり両手で抱えたリスの子みたいな目で。僕がそのおじさんをみました。そしたら「うるさい!」と、新聞を片手にしたサラリーマンとしか思われない灰色(グレーさでいえば黒白半々まぜた50%くらいの濃さ)イギリス服のおじさんが、軽く俯いた僕を少々見下しながらかなりの大きな声で言いました。自分は「すみません」と答えた。瞬間に。ちなみにそのとき僕は高校時代の延長で、コンタクトレンズである。ハードの。目に痛いけど。まつげとかごみとか入り込むと。したがって嘘ぬきでお目目がぱちくりしてたろ、元々おめめ大きくてかわいいのにめがねじゃ見えなくなって勿体無いね、と小学校低学年くらいのころ近所の床屋さんに言われた位。確かにね、僕はその時までまさかそこまで混んでる電車の中で鮨詰めにされる地獄がありうるとは想定もしておらず、いわき~磯原間で少しは余裕がある満員感で生きていた上に、朝方の西武池袋線快速がそこまで気が狂ったストレッサーの集合知とは知らずにいた。よってこれは即座に謝った。正しい判断だ。
だが、僕がそれでそれなりに怖がったのは確かでもある。なにせこの前日の話である。
僕は姉が東北芸術工科大学はいって一人暮らしをしだした初日の夜に、夜8時頃だったか電話かかってきて、お茶の間で僕の目の前で母と姉がやりとりしてるのを聞いた。それは姉が不安で電話してきて泣いていたのだ。この時自分は中学だったかで、ふーん、ふーん、そんななのと思って、お姉ちゃんはよく泣くな、たまにか、と思っており、不安で可哀想とは思ったものの、男なんだからそんな泣くなんて僕ならないだろうな、と高を括っていた。
しかしこのストロボライツ突然中止事件の前日、だったはずなんだけども、保谷で初めて一人暮らし開始した日の夜中。僕はやっと姉がなにを不安がっていたのか理解したのだった。
自分は最初、両親に送られてその下宿に車で行き、保谷駅南側のセイユーだかなど使い昼で一通り家具揃え、夕方になった。それでバイバーイと両親が車で消えて、この時点でも自分はやっと一人暮らしか~これで自由みたいな、日本的一般大学で親元離れるやつなら多かれ少なかれ似た感慨うける夕暮れを、あの細い路地からジブリ階段通るまでの間、また2階の下宿スペースにあがって、ソニーCDコンポで音楽かけつつ過ごした。実の所、そのとき流していた音楽は『HIGHVISION』以外にもあり、YUKIの『PRISMIC』であった。これを僕は当時ソニーファンだったので、メタルラック最上段に置いたかっちょいいCD+MDコンポから流しつ、白とオレンジのボーダー柄ラグにちょこんと座り、余裕ぶっこいていたのだ。
が、僕はこの後でまだカーテンがなかったので、日本家屋だけにやけに広い(下15cmくらい除いてほぼ一面の)ガラス窓から、真っ暗闇が襲ってくる中、段々と不安になってきた。ここに誰がいようがいまいが誰も気づかない都会で、行動自体を誰にも統制されないだけになにしてもいいのだが、逆に不安だ。要は自分がこの縁もゆかりもなければ随分とがらんどうの部屋で、一人で会いたいな私のベイベーとか元ジュディマリの女がいってるへんてこ音楽聴いてようがそれはあってもなくても変わらず、空虚で誰もが匿名的な都会の隅におりてきた無限の闇の一部なのである。どう行動していいか誰も教えてくれない。その時もしカーテンがすでに設置されていたら、少しはましだったのかもしれない。余り変わらなかったかもしれない。どっちにしてもカーテンはなく、家の中で電気つけたら外に漏れることうけあい、故に部屋中がオレンジ色に染まって更に段々と暗闇が忍び込んで、最後真っ暗になるぎりぎりまで曲聴いた。恐らくこの『PRISMIC』をシューって横からコンポ本体に入れて、プレイボタンを右手人差し指で軽くおしてから、アルバム全体が丸ごとおわるまで時間がひたひたと経過した。僕はその間に、脳の一番奥までおそるべき闇に浸されていった。あの夕暮れの異様なキツネ色もそうだが、闇の深さといったらない。ただ、自分はこの自伝なる試みの前にも書いたよう、男らしく育つ様にしつけられていたので、姉みたいに不安だからといって実家に電話かけて泣いて相談するという事はできない。しかし自分のほうが姉より感受性は一般に高い気もしてきたし、不安感はもしかすると僕のほうがより感じていたかもしれぬ。では自分がどうしたかといえば、そのとんでもない不安感の中で、このYUKIなるミュージシャンがジュディマリ解散後に最初に作った当人が曲にも手を出したといっていた唯一の(その意味では彼女が単に歌手化する前のアーティストお手製の)アルバムをかけながら、シングルベッドに仰向けで天井みあげじっと耐えた。夜中にあののちにやばいと気づくステンレス浴槽風呂から上がっても。
そのときに不安が解消されたわけでは一切ないのだが、電気つけると外にばれるので真っ暗闇の中で、僕はコンポの前面にあるボタンが発する、青い光だけが右の目の端に映るかうつらないかの位置で、この安全とは決していいがたいとのち悟る、ジブリ系下宿の洋間の端で、目を闇夜にきらきら輝かせていた。
(続き『18才の自伝 第十五章 画家の血を引くT』)