2020年8月20日

18才の自伝 第二十三章 はじまりの朝

 (『18才の自伝 第二十二章 美術教育の批評的構造論』の続き)

 前章前半部で芸大受験、及び美術批評の感覚論の根本原理はおみくじだといった。なぜなら或る絵が高評されるのは各自の主観に基づくでたらめさ(アト・ランダムさ、無作為さ)だから。それもまたなぜならそこに統計的偏りがあるとすれば、おもとして美術史学にあてはめた過去流儀との相似性か、芸大油画教授個人の好み(カント哲学でいう「趣味」、ここでは特に平面上の色彩配置に関する特定の感覚値への偏った選好)かだが、一般に油画教授は後者に基づきごく短時間の、直感的な権力行使で合否判定するから。
 一般社会の特に専門の芸術家ではない人々の間で、結構な頻度で「センスがいい、わるい」という日常表現がみられる。センスとは英語senseのカタカナ化、その文脈では特に感覚との意味だ。そして往々にして彼らは自らの感覚が他人より優れているというダニング・クルーガー効果的前提に立って軽い気持ちで断定する。これは感覚がよい、わるいと。大抵の場合は二分法、二元論である。いうまでもないが、これは主観であって、しかも不動の評価軸に基づく感覚判断でもないのでおみくじに過ぎない。ある日、ある時、ある人がある作品を感覚がよいという。だが次の日、次の時、同じ人が同じ作品へ感覚がわるいという。典型的な素人批評にありがちなパターンで、そもそも彼らはその日その時の、自分の主観、もっというと単なる気分をある作品に投影しているにすぎない。この感覚は何一つ信用が置けない。その種のおみくじ構造――おとといは大凶だがきのうは小吉だった、そして今日は理由もなく大吉が出る――が、芸術家らをひたすら苦しめる。評価者らは勝手気ままなミスターマーケット(市場いちばさん)みたいに、変動幅のやたらある適当な風説をまきちらすが、次の日には過去と完全に違う判定をする。
 では芸大油画教授が、職名通りプロ(フェッショナルな)批評をできるかといえば全くそうではない。感覚論の構造からいって、ある感覚が他の感覚より優れていると言う為には根拠が必要なのだが、その根拠が、その人個人の捏造だからだし、他人のそれと往々にして共有もできないし、共有すれば流儀になる。流儀(スタイル、様式)に基づく評価となれば、既に理論化されている事になるが(さもなければでたらめと変わらない)、芸大油画教授はその理論をはっきり開示していない又は持っていないばかりか、理論書を出版・発表している油画教授は殆どいないので可能性は低いものの、もしある流儀を持っていても偶然一次・二次で或る絵を評価する(但し全員が同じ絵を必ず評価するとは限らない)各教授らで、通常似た流儀ではなく制作手法からその作風まで大変ばらけており、流儀間にほぼ共通性がないか大層違う。よって或る芸大油画教授の感覚論にできるだけ非でたらめさ(でたらめでなさ)をみいだし評価される為には、彼らの認知パターン(特に平面上の色彩配置への視覚的感覚値に対する好み)の癖を系統的に観察研究し、それに最大限作風を合わせる、受験絵画風で「教授に媚びを売る絵」へと、流儀・作風の自己改造を図るしかない。

 ここで問題が生じる。各芸大油画教授らはいわばでたらめ感覚論の権力行使により、一次で誰かの作品を一瞬で落とす。詳しくいうと、判定現場を知っている人(芸大院生)の証言や既知の情報等に基づけば、ある絵には大抵1秒以下、最大で5秒から15秒くらいの判定時間がわりあてられるが、各芸大油画教授らの総評方式ではなく、ある特定の芸大油画教授がでたらめに或る絵に割り当てられ、合否判定は一度きりである。したがって一次の「教授に媚びを売る絵」では全芸大油画教授らの共通感覚を前提にしなければいけない。無論、ここを偶然通過しても二次で各芸大油画教授らの誰かに高評される必要があり、ここでも共通感覚が無視できない。二次は絵の数が少ないので各芸大油画教授らは全作品を一覧するが、その中で彼らがおのおの、または複数評で気にいったものを選び取る形で合否判定する。したがって二次の「教授に媚びを売る絵」では特定の芸大油画教授に特別気に入られるほうがことさら有利となる点が、一次とはかなり違う要素だ。全員が軽く評価するより1人がごく高く評価するほうが有利と。だからといって、各芸大油画教授らが総じて高評している絵が合格判定に近いのも否定できないので、共通感覚が全く無駄になるともいえない。
 こうしてドバタでは上記の暗黙知に基づいて、特定の受験絵画を作らせる。

1.合格者の再現絵画(前年度の合格者に合格直後、ドバタでもう一度全く同じ絵を描いて貰う)から抽出した各芸大油画教授らの共通感覚に、次年度の生徒作風を合わせさせる(再現絵画化)

2.特定の芸大油画教授の好みを把握している(彼らに直接師事している)芸大院生らによる、「教授に媚びを売る絵」への魔改造(忖度絵画化)

この2つの方法論、すなわち再現絵画化と忖度絵画化が、毎年ドバタ内で生徒の上に植えつけられる――なかば無理やり、生徒の個性を盆栽式にそろそろと気づかれないほど矯正しながら洗脳し、徐々にねじ曲げる形で。結果、異常に偏った、2002年当時も2020年現在も長らく日本一を維持する、芸大油画科合格率を叩き出してきている。前章のまとめになるが、おおよそそういう事だ。

 18才の僕は約1年かけこれらの内情を把握して行くが、最初から分かっていた訳ではない。全くの暗箱だった。敢えていえば芸大内でも起きている内部現象も、単に制作時間が受験時のよう半日とかではなくより長い(週単位以上とか)だけで、教授が評価下す形は変わらないので、基本構造は完全に同じである。
 ここから導ける将来像は、芸大院の博士課程まで行くと、少なくとも油画では、当時の芸大油画教授らに共通の感覚論的好みに近く、かつ、特定の芸大油画教授に感覚論の閾値(これはなになにさんの研究室っぽいね! と分かる最小刺激量)の面で特別似ている絵が完成する。

 僕はこれに18才の後半で気づき、遂にある行動に出る。恐らく過去のドバタでは僕だけが執った行動であり、それは或る悲劇を生む。
 だがその悟りまでにも至極長い修行過程があり(といっても1年以内なんだが、本気で超猛勉強していたので一日千年イチニチセンネン一日千秋イチジツセンシュウだった)、それを説明しない事には、なぜ自分があの種の行動をとったのか、多分わからないだろう。実際にIさん(I先生)もわかっていなかったと思う。『ハムレット(デンマークの王子、ハムレットの悲劇)』でシェークスピアがなぜハムレットがあの種の実に複雑な行動をとったのか解説しきれているか文学者間でも定見はないだろうが、少なくとも、一見怪奇あるいは狂気の沙汰にみえる彼の示威行動も、背後には論理的に説明できる範囲で必然性がある。僕自身の人生にも、この時、18才後半での経験が非常に大きな衝撃をもたらし、この時以来、自分は世間に対し先ず以て演技的に振舞う様になった。なぜなら本気で行動する限り、自分より遥かに認識力の劣る、としか判断できない人々が、自分の行動を大いに誤解してくれるのを知ったから。世間は観客だ。


 前章に述べた「自伝全体で或る青少年が1年間かけ悟りをひらく筈の、修行の結論」部分の一応のまとめが終わった。美術批評・美術教育に関する哲学的考察を含む、抽象度の高い前章であったから、読者らの復習の為にも再度、よりわかりやすく簡便に書いておいたのである。

 本編にもどるが、徹夜で寝ても一般に寝覚めが悪いだろう。といっても18才の僕はとても肉体が元気だったので、普通に寝れたと思うし、この頃、ある特別な事件が起きる。事件というか僕の一生でもこの時と、もう1度だけ起きた或る現象。
 それはあの下宿で或る春の日に起きた時に感じた、凄い覚醒感だ。
 この頃の僕は高校生活の延長で、徹夜しようが朝に起きるという睡眠パターンが体に刻まれてしまっており、昼までに寝ようが朝に起きる。多分その日の朝だったかは定かではないのだが、自分があの水色下宿の洋間の黒いパイプベッドの上で目を覚ますと、完全に体中に力がみなぎっており、ミスチル(ミスターチルドレン)でいうとアルバム『It's a wonderful world』の『overture』から『蘇生』へ至る時の感じで起きた(CDで聴くと曲間がなくて繋がっている)。実際にその頃あのアルバム出てたからきいてたのも関連していなくもない気がする。T君もあとから同じアルバムの同じ曲部分を「朝(起きてすぐ目覚ましに)聴くといいよね」とかいっていた。
 そこで自分は凄まじいエネルギー満タン状態の中、これから僕はなんにでもなれて、自由で、希望に満ち溢れており、若く、将来は輝いていて、どんな夢でも叶う、どこへでも行ける、と、完全に実感として体感しているのだった。もしかすると、自分だけかもだが新居にひっこすといつもそうなのかもしれない。全く相似の体感は、僕が21才のころ調布の多摩川に下宿借りてくらし始めた初めの日だか頃にもあった。その時も凄まじい体験であり、なにこれ状態であった。やる気とかではなく精神全体が活力を充満させており、しかもどこまでも底なしに明るい感じが、目に映る一面の朝の光だけでなく実感される。一言でいうと健やかな感じなんだけど、しかも果てしなく、その爽快感が超絶に上限を超えており、空気が尋常ではなく澄んで感じられる。新鮮な世界が自分を待ち構えていて、そこで自分は完璧に祝福されており、要はドラクエ3で最初目覚める時の感じに少し近いが、それよりずっとわくわく感が半端ない。
 僕はこの時の感じをなんとか再現なり表現して留められないかな? と思い、ずっと折に触れ思ってきてもいて(なぜなら別の日におきると、同じ下宿で序盤こそ少しはかすかにあったものの次第に薄れていき、やがてもうその目覚めの感動はなかった)、それはミスチル『蘇生』でかなり実現されてるなとは感じるものの、僕のバージョンも伝えられないかな、或いはまた体験できないかなと考え、『RED OCEAN』というゲームを作ったときなんとか似せようとした。
(該当部分は、ドラクエ3風の最初のシーンだけではなく、結構手間かけて数えきれないほどひとりで幾度も作りこんだ部分だったんだが、最初に街に出る時に「朝の光」を質感として覚えるはず演出の感じと、さらに最初に街の外へ出る時の「世界壮大感」を覚えられるはず音楽その他の鳴り方などで試みた。クリエイターの舞台裏話だが)
 たまたま僕が大変に若かったのであの様な、HPもMPも満タン状態で起きた或る朝のすこやか度が、『ドラゴンボール』で悟空が起きたら「よっ と」、とかいって縮んでから手を使わずジャンプして起きそうな感じとして体化されたのだろうか? 今も起きて別に目覚め悪い事まずないけど当時のあれは特別だ。多分、全く別の知らない街で、幾らでも冒険できるんだ状態が、僕の中ではRPG感を伴って認識され、君、これからドラクエやれるんだよ、的に、僕が小5や6の時に学校はじまる前に(自発的に)朝5時起きで、1階のテレビの前に直行し、母がご飯つくりはじめるまでやったー! か、よっしゃー! とドラクエ5か6を、あのピーチクパーチクすずめさんも朝ぼらけの中で、白々とした外の景色(お庭と借景の裏庭の森)が、ブラウン管テレビのうしろの透明なガラス戸部分からみえるなかでやりだす時の新鮮感にかぎりなくちかい。これがおもな原因の気もする。どちらにしても、現茨城県知事大井川和彦殿がたまに「わくわく」というが、たまにというか彼のスローガンだが、わくわくでしかない。今にして思うと、僕は自分をRPGの主人公みたいに感じ、これから無限の冒険に出るんだ! と思っていた節が、確かにあるかもしれない。それで体が無意識レベルで準備をし、さあぼうけんのはじまりだよ、という印に、自分を祝福していたのかもしれない。それに違いない気がしてきた。それだけ元気なのだ。そしてツイッターだと長文書くと空気読め感がどこからともなく醸し出されるので大分遠慮しがちになるから大変書きづらい為、いづれブログ側に全部書く事に方針かえるかもしれないけど(この章の初出は、ほかの章もいままで大抵そうだがツイッター上)、どっちにしても、この保谷含む池袋圏の探検は、調布時代もだけどたしかに冒険といっていいと思う。僕にも仲間にも。
 いわば18才浪人RPG。そんなゲームあるんか。たしかにあった。僕がやっていた。そしてヤバイエンド。ヤバイエンドなんてあるんか。でもなぜか次の面にいけたのでこうして今も生きている。浪人って主君のいないお侍さんの事だからね、元々。それが転用されて大学入る前の学生になってるけどさ。浪人ゲー。

 この朝のちゅんちゅんと、『MOTHER2』の朝めざめたときにする音みたいなのがしている(すずめちゃん)なかで僕は目覚め、春先の涼しい空気も吸えばすうほどおいしく、もはやできない事はない、いかなる困難ものりこえられると感じられていて、しぬほど心が明るい。きのうまでは唯の振出しにもどるだった。そして実際、僕は不可能をやり遂げ、上述の美術教育なるものの根本原理にある矛盾をつきとめ、それへの再適応までを滑走する車のボディをあちこちにぶつけまくりながらも態勢たてなおす所までやりきる。この自伝全体ではそのたてなおし以後の物語(19才以後)を詳細まで書くつもりはないが、いづれ必要な箇所もあるので、例えばO君とその後どうなったかとか。O君の物語とどう再接続されるかなど、語らないとO君がこの18才自伝内だけなら唯のチャラ男でおわってしまうので、完全にやべっちになってしまう。O君が笑うと昔から、ヤベッチこと岡村隆史さんをお笑い業界に誘ったのに自分だけ繁殖した矢部浩之みたいにみえる。当時の矢部はO君同様繁殖していなかったにしても、基本的にチャラさ(遊び人らしさ)へ憧れる原型質があるのと、単に笑い方が似ているのだろう。作り笑いだからだろうか。しばしば。これをO君はのちミクシー日記で「ニコニコ性」と呼んでいた。彼は愛想よくするしか生き残り方がなかったといっていた。O氏がその笑いをすると「やべっち」といって僕含む高校の友達も、彼の様子を形容していた。この本気で面白くて笑っている節もなくはない作り笑いもどきで、O君が結局は多浪生になって行く宿命の日々を、どう過ごしていたか、僕には実は、サイ穿うがってまで定かではないのだが、それも追々分かるだろう。僕はその保谷なる町で、呪われた下宿にくらしていると、このあと結構たってから気づく。だが保谷そのものが邪悪だったとは思わない。どこにでもある様な、西東京のまだ隙間なく宅地開発されきっていない、東京23区人に典型的な驕慢風にいわせればぱっとしない、普通にいわせればよくもわるくも地味な街。
 1年間のホームタウン、しかし、自分の魂からみるとあの時あの場で体験された朝の光に限っては、この上なくたっとく、また、かけがえなく自分に力を与えた街。絶望の果てに希望をみつけたろう。まるでくるりの『ワールズエンド・スーパーノヴァ』。だがまさにそれ。はじまりの街。

『18才の自伝 第二十四章 保谷自転車屋業界の明暗』の続き)