なぜ僕が漫画を嫌いになってきたかには色々な理由があると思うが、特に最近明らかに感じるのは漫画的デフォルマシオン(デフォルメ)が余りに漫画風の絵師らの間で共通しすぎてて、その典型的歪みが僕の目には醜悪なのだからだろう。目が大きすぎるとか。漫画絵風になった途端、生理的に気持ち悪い。
浮世絵は今から見ると、なんでこんな目細いの、顔のかたち瓜みたいで気持ち悪いとかおよそ化け物にしかみえないが、当時の江戸人らはそこになんらかの脳内妄想を投影しており、現実感をもった偶像崇拝をしていたと考えられる。この江戸・東京人共通の脳内妄想の様式みたいなのが、僕には下衆に見える。
ごく希に、漫画絵師の一部の人が、デッサン的、肖像的に実物の人を模写して、いわゆる絵画的・本画的な図像に近いのを描いている事がある。けどこの場合も、描写が過度に省略してあるから「あー漫画系統の人だ」って分かるんだが。どういう事かというと、漫画は妄想を描く様式でまず描く為の型がある。この型、例えば目の描き方とか、人物の線描の仕方など共通の様式があり、それをまず踏むと、既に人物っぽい線画ができあがる。そしてこれに色をベタぬりするか、そのまま完成品として出す(少年漫画雑誌ならそのままか、影を軽く定規等でつけるか、スクリーントーンを貼って終わり)という方法をとる。が。僕もそうだが、美術教育系の出自の人、特に油画の人は、西洋風のデッサンを学んでいる。それは石膏デッサンが典型例だが明暗法である。木炭や鉛筆で紙の上に、塑像にできる影を慎重に写し取る。現実の影は複雑なので、或る程度そこから抽出する共通様式があるが(際の処理、影の内部は略せるなど)、この西洋風デッサン、いわゆる写実の技法を一旦みにつけた側から見返すと、漫画とか浮世絵の人物をおもとする捏造様式って、なんというのか鋳型から粘土造形じみた金太郎飴を量産しているものでしかない。つまりどれもこれも、似たり寄ったりで、様式上に何の工夫も進歩もないし、しかも型が歪んでる。きのう『東京文化批判』で、新海誠とラッセンの共通性について結構辛辣に評してみたが、特有の幻想画に於ける型が先立つ、という点がそっくり同じである。そして新海の場合はこの型を漫画様式から借りている。それが僕には気持ち悪い。
目も顔も形も歪んでるし塗りも単純すぎ。
僕が以前は注目していた漫画・イラスト系の絵描きに今日マチ子って人がいる。僕はこの人がどこ卒なのか知らない段階で、おー、結構凄い、というかとてもいいと思ってエキサイトブログだった彼女の画廊サイト「千年画報」ってのを隈なくみていた。当時、彼女が描く多摩川沿いに住んでいたのもあって、例えば府中と聖蹟桜ヶ丘の間くらいの川沿いの高校の前の道とか、京王多摩川に近い多摩川原橋あたりとか、ジョギング・ランニング・自転車探検コースだったので毎度行き来しており、あーあそこだってのは似た様な風景にみえるが、ご近所さんには分かるしくみになっていた。あれは漫画の質ではなかった。そんで、僕は今日マチ子の絵にはなんら不快感を覚えなかった。というかいいじゃんいいじゃんと思っていたんだが、ま、ファンくらいのものだったから姉にも紹介した事があったんだが、なんかイチゴの戦争画みたいなのを描き出した辺りから商業化して行ってしまい、もうもとの新鮮味が僕にはなくなった。様式はほぼ類似の線描なのに、不快感を覚えない漫画ぽい絵ってのがあるわけだ。今日マチ子の絵は線描の上に淡い色彩で、しばしばパッサージュ風(デュフィが使う様な、ベタ塗りずらす手法)に滲ませながら塗り絵するのだが、ここでも通常の漫画家とかなり違うというか、風景画としても成立する質だった。
あとから分かったんだが今日マチ子はどうやら芸大でてるらしい。
それでこの作文の主題になる。一度、西洋美術の古典的技法を身につけたかは知らないが(身につけなくても芸大入ったり卒業できる)、少なくともそれらと違和しない形でも漫画様式を応用できる実例。それが彼女の絵だった気がする。ほかにもこの種の隠れ古典系の現代サブカルってあって、華風月、和楽器バンドや、特に鈴華ゆう子って人がそれかと思う。水戸だから僕(北茨城)の近所出身ともいえるが、一見するとボーカロイド流用のビジュアル系流行歌手に見えるのに、デフォで聴いてもなんか質が高い様な感じがする。しっかりしてて。質の高みの本質にあるのは、古典的格式、いわばカノン(canon、規範。正格)なのである。一度それを習得している人が再び現代サブカルやった場合、規範を知っている人には明らかに一段上の高みにいる様に感じ取れる。坂本龍一の作るピアノ楽曲みたいなもんである。
そんで、新海も駿もこれがない。だから僕は新海はいうまでもないが(絵描きの目でみて全般しょぼすぎるから絶対に歴史に残らない事は僕の冷徹選球眼から断定できる)、駿も「漫画にしては頑張ってる」みたいにしか感じてない。
手塚治虫はデッサン未修得の劣等感あったみたいな情報がある。デッサン下手っていわれたと。確かに下手。そして、これも断定できると思うが、僕は生で村上隆の絵をはじめて見た時「うわー不細工だな」ってなんの留保もなしに0.1秒でいった。ドラえもんの絵だった。僕はドラえもんは小2、3くらいからしぬほどテストの裏とかに描いてきて中3のクラス旗の意匠になったほどだからある種ドラえもん通である。僕が不細工という言葉を使った時なんて生涯でその時、ドラえもん展の時しか記憶にない。それだけ酷かった。あそこに提出されてた村上隆筆のドラえもんの絵。わざと下手に描いてたのかもしれないけど。
最近のは弟子が描いてるか直接トレースしてるかで全然下手ではなく藤子不二夫Fのと同じだが。つまり漫画には漫画の規範がある。これもまた習得済みかどうかで明暗分かれる。
ファンアートでも同人誌でもいいが、正格を穿ってる二次創作サブカルだと「上手い」か「違和感がない」となるが、穿ってないと「これは酷い」となる。必ずしもそっくりすぎる必要はなく逆にそれが気持ち悪い時もある。『ドラゴンボール超』はファンアートの類で、鳥山明ファンのとよたろうが描いてるので結構そっくりだが、なんか違う。まずキャラの行動原理みたいなのも演出みたいなのも微妙に堕落してて、表面滑っており、本物感がない。『MOTHER3』もそれ系で、所謂糸井節が物凄く自己模倣化されていて偽物感があった。マザー3の内情は伺い知れないので、糸井さんがどの程度シナリオ細部まで手をつけたか分からないにしても、『MOTHER2』の時のあの凄まじい詩の応酬(ほぼ日の川上弘美じゃないが、僕も小学生以来一大ファンの共通意見として、あれより凄いほんわかユーモア世界は一度もみた事がない)はみられない。
結局、こういう事。
規範を習得してるアーティスト、画家は、そうでない画家と違う次元の代物を作り出す事ができる。これが事実。そしてこの規範を習得済みかどうかってみる人がみればわかる。
鍛えてある刀の例を村上隆が著書内で挙げてたが本当にそんな感じ。ここが一流以上の基本土台にあたるのだ。いわゆる大衆受け、人気取りの次元って、規範に到達してなかろうと余裕で勝ててしまうので、或る意味では次元が低い戦いである。天下一武道会にミスターサタンが出ても勝ててしまう。けどセル戦では歯が立たない。後者で死なない前提には、規範以上の議論をする必要がある。その種の心理戦が一軍の場だ。規範以上の議論といったが、画家当人が理論を流暢に語れる必要は決してない。単に実技できていればいい。理論家が実技巧者を兼ねているとは限らないにしても、言語化以前にその議論の中身を、直感で把握できてないと、規範以上の戦いって繰り広げられない。スーパーサイヤ人のなり方もコツで学んでいる。規範を踏まえた上で脱構築する。勿論これも必須要件で、型通りに行動してるだけでは簡単に動きを読まれてしまい、もっと複雑な動きをしてくるプレイヤー(他作家)に瞬殺されてしまう。逆に動かない戦法とかもある。ずっと同じ型くり返してる系。奈良美智やサザエさん。でも規範踏んでないと一瞬で負け。長谷川町子は死後いまだにアニメ続いてるだけに、漫画の規範に到達していたといっていいだろう。奈良は死後どの程度残るか分からない。少なくとも僕は初期の『雲の上のみんな』以外ひとかけらも評価していない。それ以後は進歩が実質止まっている作家(足踏み系)なので、飽きられたら急速かもしれない。ピカソは様式を一定期間で変えていたとされているが、あれとか完全に規範に対する位置取りゲームだったのである。古典主義があって、青の時代があって、ばらの時代があって、キュビズムがあって、また擬似古典があって、ゲルニカがあって、晩年の幼児様式に至る。ほぼセル戦以上にあたるが規範ずらし系。村上隆も雑な動きが大きい。僕がみてて一番すげー外してて、あれ? と思ったらすぐやめた(軌道修正してた)のに、なんかお尻で白髪一雄みたいに絵にのっかったかなんかのお下品な版画つくっていた。ボディペイント系。けど全然(イヴクライン後の)欧米文脈に乗らなかったと見えすぐ撤退していた。ボール球をぼんぼん投げ込む作家ってのもいる。ほんの希にしかストライク投げてこないし、それどころか一度もストライク投げ込んでこないがボール球の派手さだけで「非実力的に」人気って人。いっちゃ悪いかもしれないけどもうブロックしてきてるからいうけど、会田誠とか正にこれかと。全部三流作品だ。会田誠の絵でどれか一番ましなのをとりあげて当館に収蔵しましょうか? ってなった時、国中の学芸員は頭を抱える事になってしまう。外国勢ならまだジャポニズムの変態画家って文脈で、お下劣なのでも「はいオリエンタリズム~」ってエスパー伊東みたくいえるが、流石に自国の恥収蔵はきついものがある。かくて規範を踏んでもなければ(和風裸体画としてもオオサンショウウオ込みで同人漫画レベルかなぁって微妙だわ、あぜ道みたいなマグリット騙し絵ネタ系も発想が陳腐でどことなく間抜けでしかないとか、しっかりした所がない)、ボール球だらけ(玄人目に面白くない)だったら絵の寿命は極度に短くなる。
最終結論としては、漫画にしても本画にしても、規範というものは古典学的な意味で確かにあるのだが、それをしっかりと抑えてあると安心してみていられる或る典雅さを発揮できる。そこから例え守破離的に逸脱していても、なお、或る背景知識の束として「よいお里」が感じられる事になる。これが本当の話。規範を抑えてないとセル戦以上に行った時、幾ら天才でもかなり辛い戦いを強いられる。なぜなら相手(一流以上の作家)は普通に抑えてくるからだし、例えばハーストはミニマリズム抑えてるからスポットペイントだし、クーンズは商品流用系だし、バンクシーは競売でレディメイド絵画脱構築するしとくる。そのガチンコの文化無差別級総合格闘技が行われている狂った異常乱闘の場に、絵を描く人が「天才」ぶって行くと、唯の規範技(文脈)程度で即死してしまう。或る種の国内的驕りがある会田誠が全然通用しなかったのはこの為、逆に規範を一応は抑えていこうと謙虚姿勢だった村上隆が通用したのもこの為だ。いうまでもない事だが、規範を完璧に抑えてくる定石使いが、かつ、独創的であってしかも天才という場合には、いかなる者も太刀打ちできない。そのレベルに行っていたのは過去の全美術史でも数人とかだろうけど、ウォーホルは多分そうだったろうし、ルネサンス時点ではレオナルドもそうだったろう。
僕のみる限り日本にもその種の天才は、数人以上いた。尾形光琳、長谷川等伯、菱田春草、あるいは横山大観あたりがこれにあたるといえるだろう。日本画規範で最高峰の次元でありながら、同時に高度な独自様式の中で自己実現を図っており、余人に追随できない。寧ろ日本画の巨匠は独創性の面では圧倒的だ。大観の『群青富士』は、過去の全日本画でも、最も典雅な様式に到達した記念碑的作品といえるだろうが、この種の高貴なる絵を他国のいづれかの人が作り出せたとはまずいえない。という事は彼の画壇での地位は格別なもので、恐らく将来にわたってもそうだろう。規範を抑え、かつ、尋常ならぬ飛躍がある。僕が実物の『群青富士』をみたのは東京国立博物館でだったが、少なくとも古今東西であれだけの高雅の域に辿り着いていた画聖は、大観を置いてほかにいないだろうと確信された。畢竟彼の画論が精神論に終始していたのは、結果からみて、絵の技法は規範同様、最後には踏み台に過ぎないと示していたのだ。