私は食に関心がない事で、私の家族級の周囲ではかなり有名なんだが味がわからないわけではなく、精確に美味の判定はする。しかし基本的には、決してうまくない食だろうと余程の悪趣味でなければ適応できるという事で、これは僕が多分19才くらいの頃に、水戸の或るお侍さんの話を読んだせいかと思う。
そのお侍さんは常々質素なばかりか(これは武士道としては普通)、寧ろわざと不味いものを食べているとの事で、その理由は、戦場で美味しい物が手に入るとは限らないから、いざという時に備えてといっていたらしい。それで僕は割と感心し、以後、美食追求は主要関心事から外し、食を副文化扱いでいた。けれども、僕の家族は必ずしもそうではなく、特に姉とかそうなんだが、やたら食に関心があるほうだった。もっというと食に目がないだけでなく、かなり探求的な美食家でもあった様に思う。だからといって肥満とかではなかった様だが。僕は幾ら食べても(母方が)太らない体質なのだが大食した事がない。
それで、かなりあとになって、放送大の美学(感覚論、aesthetics)教授・青山昌文講義を受講し、単位取ったんだけど、その中でシャルルラロの思想で、食(それどころか性愛の官能性)も主文化どころか美術扱いしていた。僕は結構、それまでの古典的規範が破壊されたので面白がった。今も面白がっている。食を純粋美術級の物としてみる、との考え方は、日本だと北大路魯山人なる奇人扱いされている例外者が幾らか似ていたくらいで、彼も下卑た所があると評されるよう(村上隆の著書内での言及)通例格式が高い人物とはいわれてこなかったし、基本的には普通ではない。だがフランス側ではそうではないわけだ。
僕の母は商家の箱入り娘だったキリスト教大(多分短大)出良家の子女で食事はかなり立派なのを出す。華道・茶道免許も持っているらしい。それで僕は子供の頃から当然の様それを食べて満足していたかと思えば、逆にかわいがり過ぎなのか僕が少食傾向なのに常に良品が食べきれないので、食事嫌いになった。過ぎたるは及ばざるが如しという。実際自分はちょこちょこたべてもうお腹一杯で食べたくないのに、大変豊かな食事をもっとがむがむと食べなさいとかいって、幼児の頃から存分に出されていたので、武士道質素論もあり、遂に食への関心は失われつつあった。けど、そこから自分を救済したのが、いわばラロ。
大体数年前くらいにその講義を聴いて理解してから、食について考えるのは(性やそれにまつわる官能性について考えるのと同じく)、必ずしも下品な事ではないのだな、と、新たな思想的地平が啓かれた。
それで今さっきちょっとお寿司が余っていたので少し食べて考えたのだが、ここで書きたいのは醤油。
このしょうゆというものは日本食の中では甚大な影響を伴っており、はっきりいって、さっき思ったに、これを最初に発明した人はダイナマイト贖罪平和賞だったら5億個以上は当然貰っていいだろう。しかし歴史辿る限りはっきりしないし(諸説並立)、その人は既に死んでいない無名の人という事になる。
想像するに余りあるが、もししょうゆが我々の暮らしから消えたら、様相は一変する。戦時中、大豆など原料不足から(今も輸入依存度が高い。2013度で94%が輸入、2017度で食品用でも75%が輸入。農水省調べ)、実際に代用醤油が作られていた。
しょうゆつけるだけで、寿司にしたって納豆にしたってなんにしたって。磯辺餅だって。ほかなんだ。大抵の日本食ってしょうゆつけるレベル。あれか、朝の卵とか。ゆで卵は塩の事があるにしても、目玉焼きにすらしょうゆ。そばうどん。要は日本人の味覚の相当部分を占めているんだけど余り気づかれない。
この縁の下の力持ちとしか言い様がないしょうゆ様であるが。これを発明した人は全く以て知られてない。そして僕はさっき気づいた。これが本来の発明なんだろうなって。本来の偉業ってこういうのを指すんだろうなって。だって名誉の為に発明したんじゃないのだ。多分、本気で食事の為に発明したのだろう。
一体、日本のラーメン(水戸黄門が最初に食べたとされるもの、水戸藩らーめん。宝珍楼版も大興飯店版も食べたけどあれは薬味ラーメンに近く、一度以上食べてみたほうがいいに違いないけど、初期の渡来状態をよく再現してある)の基礎って、いわゆるデフォだと醤油ラーメン。これからして凄まじい影響力。
本当に凄まじい発明家というのは、醤油発明家と同じで、縁の下から延々と人類のある幸福を支え続けている。そしてその人は決してオモテに出てこないのだろう。だって余りに凄いから、孫子でいえば善く戦う者の勝つや智名無しだし、老子風にいえば無名は有名に優るだ。世間で言われる発明家とか虚名だけ。現実の所、日本のダイナマイト贖罪平和賞の某政治家いるけども、彼と、醤油発明家を比べ、どっちが偉いですか? って聴いたら10中8、9はそりゃ醤油でしょ。でも醤油平和賞なんざないから、全く無視されているし、そもそも誰が作ったかわかってないのである。政治家なんざ自分の名誉欲でコネ受賞だ。それで僕が人類では初だろうけど、ここで醤油に感謝したいと思う。この食材、調味料が、なんと豊かな日本の美食界を今まで大変な数、想像を絶する労力で支えに支えぬいてきたか。もはや千尋の谷に架かるおおはしけや、下手すると防波堤すら超えている重要性すらあるくらい、誰かが感謝しないと罰あたる。
そして僕が気づいたに、既に当たり前にある物と思われている中に、真実の偉業が隠れているのである。コモディティぶってるが。明らかにそうではない、このしょうゆなる存在。だってパック寿司(いなりあり)についてる小さなプラスチックのパックに入ってる本格醸造とか書いてあるやつの中身が半端ない。
なぜこの小宇宙に、斯くも惜しみなく厖大で肥沃なる味の魔法が込められているものか? 深淵すぎて底がみえない。実際に僕が今さっきそのしょうゆをつけて食べたときの、唯のいなりずしすら、軍艦巻きみたいなのと同等以上にヤバ美味いのであるから、それというのも醤油製造者の伝統的秘伝の神業である。日本はダメだといわれている。確かにダメ。特に政治。というか自民党。あと皇族もなんか低俗化してるし。海の王子といちゃついてとか、東横線で。やだあ~とか。おかしいでしょ。皇族が。キリスト教大も若干おかしいしね。神道家の教祖さんでしょ。色々ダメになっている。けれども、食は鉄板で強い。筈。イタリアという国があります。僕は前から少し思ってるが、これジパングと似た所がある。食事の質が高く、女が威張ってる。特に東京・京都辺りとか娼婦や芸妓だらけでしょ。漫画でも女ばっか描く。大体似てんじゃないすか、戦争の弱さも? 南関東の軽薄な軟派風土はね。関東北部はかなり違うと思うが。僕がみるに関東北部はどっちかといえばフランスやイギリスに近い面のほうが大きいと思う。どうみても軟派風土じゃないから、よりイギリスの方に近いかもしれない。モギケンが土浦の蕎麦屋きてこっちのがイギリスにちけーんじゃねーかってクオリア日記に書いてたがそれは確か。東京圏のほうが軟派っぽい。それでも、食事が美味しい点では、茨城県に関しては圧倒的に次元が高いと僕は地元人として、東京都でも色々ほうぼう連れてってもらった上で、その他の府県ほうぼう行ったり連れてってもらった上で比較して言うけど、間違いない。農漁業県で食材が遍く豊穣かつ新鮮なのに加え、純粋和風の美食文化が存在。この点では、食事まずいまずいと偏見で言われるイギリスで自虐ユーモアにすらしていたけども、茨城は全くこの点では似ていない。なぜなら燦然と輝く美食界がある。フランス人の方がまだ近い。けど、英仏全体と直接食めぐりして比較してねーからはっきりした事はいえないが、僕の予想では勝つ可能性ある。
僕がほか国内で食めぐりした中で、唯一、こいつら強敵だなと思ったのは秋田県であった。ここは本当に美味しい物を日常みたいに食べていた。正直東京なんざもうはるか足下なので、全く太刀打ちどころか同じ食事圏とはいえない位違う。東京の高級店も変り種もまあ色々連れ回されたが微妙な水準だった。それだけではなく、いづれ書くけど、僕が古今東西で食べた食事で圧倒的に不味い物を食べたのはほかでもなく、東京都調布市のある場所で、であった。というか市庁舎なんだけど。田作りホールってやつの屋上界で食べた味噌カツなんだけど。あれは本当にぶったまげましたね。南関東の食レベルの低さの象徴。秋田人は、僕らが食べてどうみても美味しい、いやおいしすぎる次元の旅館で夜出るきりたんぽ鍋を完全に馬鹿にしているらしく(謙遜ではなさそうだった)、こんなのなんで美味しいのみたいな事いってくる。それだけじゃなく秋田駅周辺で適当に稲庭うどんの店入るだけで圧倒的に質の高い物が出現。が。東京人ときたら「えっ」ってレベルの、凄まじいゴムみたいなのをうまいうまい言って食って、いばりちらしてんである。これも僕の地元の雨情牛にしても常陸牛にしても、神戸牛なんざいうまでもないけど、豚なら豚でローズポークとか全く次元の違うしろものであるから、もう東京人の舌は破滅的なのだ。無論東京でもましなのはある。僕は父が学生時代からよく合格祝いとかで連れて行ってもらっていたらしき、ある上野の老舗鰻屋に関しては、中尾彰画伯の絵が玄関に飾ってある僕的にはいかにも江戸っ子だなぁって美術趣味を除けば、かなりというか鰻屋の中ではまぁ最強に近い質であった。素朴さはないけど。つまりこういう事。
東京人は格差が凄い。東京の底辺はその中の9割にあたるが、まじで家畜みたいな飯をつめこまれていて食のレベルはもう絶望していい。でも、当人達は鮮度の落ちたしぬほど不味いのに高い野菜、魚、肉、冷凍食材を中華から輸入されてくわされてんのに気づかない。唯の貧乏人だから。が、東京の上の方は、残念ながらなんだろうけど、それなり以上の味の物は食べられている。でもね、ここで確かな事としては、いわゆる産地に比べると全然質は低いよ。だって飽くまでフランス料理みたいなもんで、鮮度が輸送時に落ちている物を加工でごまかすタイプの料理だからね、どれもこれも。僕が知る限り、この上なく美味しい食べ物のなかでも、往々にして最強なのが、産地で取れたてをその場で最小加工、または無加工の生で食べる系である。これは当たり前といえば当たり前だが、東京人はどう転んでも食べられないので最初から視野に入らず、技巧に凝るばかりで二段より劣る食事で我慢する。寿司なりお刺身なり、海鮮丼なりお鍋といっても、僕の地元の漁港の漁師が経営している食堂で、その日に獲ったのを即食べた時の感じは、どんな大都市圏で懐石風に振舞われるのとも全く存在界の位相が違っており、いってみれば神とケダモノくらい違う。神界に動物ちゃんは生きているので人間界では別物だ。という事は、結局、漁師さんが海上で釣ったのその場で捌いて食べている時は、最強の上を行っており、少なくとも本当のグルメはここまで行ってないと何も語る資格がない事になるであろう。現実の所、船酔いが恐いへなちょこや、わざわざそこまではとか行ってる都会っ子にできるのは、漁師直営店へ通う事。築地がーとかいってるが、これだって所詮は卸売市場なので、一次生産者ではない。一次生産者の店でなければ、本当に新鮮な魚介類が手に入る事は、泣いても笑ってもない。これが基本的な極意である。美味なる物の本領に近づくには、一次生産者の中に分け入り、しかも彼らが外部者に隠してる物を手にする。誰だってそうだと思うが、他人の為には自分の為になる粋、以下のものしか譲っていないのである。これは生産者たるものおよそ全員が例外ない筈で、だって、魚屋さんでも肉屋さんでもお米屋さんでも、自分が好きなものの為に命張ってんだからいわばその道のプロ。そこで一番いい部分はちゃんととってある。それで、外部者にできるのは、その粋にできるだけ公的にでも接近する事だけである。これが分かってない人が、できあいの料理でおいちーおいちーっていって死ぬ。なんもおいしい物を食べた事がないままでしぬ。偽物で、作り物で、表向き着飾った白く塗られた墓に収まる。美食とは生産者の道なのである。
こうといえるであろう。真の美食家とは、この世では料理を否定した者である。なるほど僕はこの道を辿っている。なぜなら料理によって食材間の組み合わせを見つけ出そうとする事は、元々、滋味に溢れた食材を同時に殺す事にすぎず、真の美味とは素材自体の本質に根ざしている、自然の無限の深みだから。僕はこの世で一番好きな料理の一つは、あゆの塩焼きである。特に、色々な場所で食べたが、福島の山奥のある渓流で幼時から食べてきた天然のそれとか、いかなる食事とも属する世界の慈しみへの広がりが違うわけで、そこまで行かなくとも、地元の清流で釣った小さなあゆを自分ちの七厘で焼いても同じだ。これは、鮎という魚が、一旦海に出て、広い世界を旅し、また地元に帰ってきて、そのホーム清流で卵ちゃんだかなんだかを生み、そこで一生を終える。この間にヒトなるろくでもない哺乳類が介入し、お命頂戴しているのだが、そこで鮎から感じ取れる宇宙の育む滋味の広がりが、実無限なので川魚の粋なのだ。茨城県だと一般に、農本統治者だった義烈両公がいた事もあり、食事に感謝せよと児童から指導される。だがこの星の育む本質的滋味を、ある動植物の生命を具体的に自力で奪う実感と共に、実際に感得しながら食事した者でなければ、一体どの様な真理に根ざした認識なのか、そして義務か一切分からない筈だ。我々が食事をするとは他の生命を奪い去る事である。単に美味しいか不味いかとかほざいているのはその意味では低次元な議論で、生産者の目線を持っていない無知の部類で、特に都会人一般にみられる贅沢病、いや非人道性にほかならない。だが彼らは本当に知らない。真の滋味すら、一度も味わった事がない。軽薄すぎる料理論。色々みました。食べログがー。わざと腐らせたらおいしいんだ~とかいってる随分頭の悪い江戸の寿司マニアの説も聞いたけど。そりゃ君らにはそれ以外なかったろうよ。でもね、そういう事じゃないから。お料理って。生命さんへの感謝の印でしょ。美味しく食べさせて頂きますという努力。
僕の料理論は、ラロの貢献の上に立って今後も希にするかもしれんが、要は、基本的な立場は青山昌文氏のそれと同じである。自然本質論(日本料理の蘊奥は、自然の本質を選択的に引き出す事という立場)。僕と彼との違いがあるとすれば、そこにより原理的で、かつ慈悲哲学的な色彩があるかどうかだろう。僕にとってすると、お魚さんにしても、牛さんや豚さんにしても、野菜さんにしても、それらの命をひとたび奪ってんだから可哀想でしかない。だが、本来の彼らの生きていた間の物語性を、渓流の川床で食べる鮎の塩焼き式に、完全に感謝の贖罪供犠に昇華できている時、それは立派な料理という風に解釈する。したがって、加工度が激しく原型を留めていない(例えばカップヌードルの謎肉)とか、生命の物語を消失させてしまっている(大抵単なる色彩つき仮設彫刻になっている仏コース料理、あるいは懐石)とか、これらは僕にとっては評価に値しない。かといって極端に豚の丸焼きがいいねといってんではないが。僕が高く評価するのは、高級めかした超絶技巧の食事ではなく、アジの干物をフライパンに油しいて入れて蓋して軽く水いれて蒸し焼いて、全部食べられちゃいましたとか。一枚肉買ってきて、やはりフライパン状の鍋に入れて焼いて、最初からついてる味以外、最大で塩コショウ少しくらいで無加工で食べましたとか。こんなだ。なぜ極力引き算の無加工に近く、しかも素材全部を新鮮なままムダにせず食べられるようミニマルに最適化した調理をし、演出の総体として生命の物語をそのまま生かしてある料理がいいのかといえば、これが、最も生命賛歌の直接的表現だからなのである。お魚さんありがと、お牛お豚さんありがと、である。一々書くまいと思ったが、茨城県域でやたら美味しい食事ってのは地元人の間では有名なのでも複数あるんだが、どれもこれも、この基本的正格を破っていない。それだから僕は大抵の県行っても「なーんだ」ってなるばかりで、地元料理と比べ質が低いと感じてしまう。料理哲学の尊さが結局は人を感動させる。