ゲルハルト・リヒターは装飾的犯罪者だ。その抽象画が大量の追随者を生み出し、それらの西洋画の描き手らは、悉く無意味な物を量産したからだ。彼は余りにまね易い様式を生み出し、それはあらゆる抽象画を否定するしぐさでありながら、それ自体を不定形として定式化もしていた。そしてこの営為は一つの詐欺で、何も意味のある形を生み出していないにもかかわらず、さも現代美術の一種かのよう彼のしごとを言い繕ってきたからだ。芸術的犯罪をおかしてから、リヒターは結局なんのしごとも成し遂げられないままこの世を去っていくだろうが、あとに残ったのは大量のごみだった。
リヒターのまねごとをする連中の生み出し続ける大量の偽抽象画は、誰も感化せず、ひたすら西洋建築のどこかに置き続けられるなんとなくよさそうな色の塊として、その場を訪れる人々をうんざりさせ続けるだろう。
『ビルケナウ』は彼の詐欺の頂点で、遂には何も生み出していないこと自体が誰にもばれないだろうと大胆になった芸術家気取りの偽物の技として、永久にドイツという国の恥ずべき後進性の記念碑となったのだ。
成程、リヒターは我々の時代の巨匠だろうが、それは反面教師としての、何も生み出せなかった人の無残な骸である。
私は嘗て、美術家の友達、田中隆央氏らに「リヒターから出発しなければならない」といった。20代前半の頃だ。これは間違いだった。言わんとしていたのは次の事だ。当時の自分は「絵から出発しなければならない」といいかえるべきで、リヒターは最初に否定されるべき、絵を描けない人だった。