大昔、20代前半くらいの頃。僕の高校からの友の小野君という彫刻から陶芸に行った人が、あなたと似た事をいいました。私はその時
「いや、言語化できない領域は人にとって存在しないとみてもいいので、言語化を諦めるべきではない」
などといいました。例えば「全世界」といった言葉に全てが含まれます。
今では、「絵画言語が別にある」と、あなたの意見と少し似ていますが感じています。最近の私の意見としては、視覚美術、特に絵の言語とは、視覚細胞を通じた、それ自体の感覚言語なのだという事です。
ただ私の意見はあなたの意見と物凄く違う所もあるとも感じます。それは普通の言語自体の問題です。
いわゆる普通言語は全世界に、或る種の意味づけをするため使われがちです。例えばMガブリエルの説がそれです。
所が私は彼の意見にも反対です。特に意味ない言語、感覚言語といったものがあると、我々画家は知っている(「わーって感じ」「なんかいいね」とか)。よって全言語は意味論に回収されない。
しかも、あなたの意見との決定的違いは、あなたが言う所の文脈主義や、感覚の理論化について私はあなたほど消極的だったり見切ったり全然していません。確かに言語化が難しい所はありますが、あなたがいう脳内で別部分を使っている面もあるからといって、感覚言語を普通言語化する事が無益とは限らない。
確かに我々――私も画家で油画・洋画系から教育を受けた側です――が明治以後依拠しがちな欧米美術の方が、その種の感覚領域の普通言語化に熟達していました。よって、例えば同時代人でいえば村上隆さんみたく、自分の技の理論化や説明能力に長けた人の方が、欧米側で容易に理解され易い点がありましたね。
よってあなたが言う事は一種の、欧米の既往の美術思潮への反定立だと感じます。いわばロゴス(論理)中心主義に対するある種の根源的批判として。
繰り返しますが、部分的にはあなたの意見に近い点もありますが、私はあなたの意見にも反対です。感覚を理論化できる部分は理解や伝達に便利だからです。
また、私は詩など言語芸術にも以前から深く関心をもっているのですが、普通言語の発展自体に甚だ努力している分野がある事にも注意すべきだと思います。普通言語で可能な表現領域が拡張・委細化する事は、事実上、我々の認知や伝達能力のかなりの部分を以前より優れた状態に持っていく筈だからです。
実際、あなたがここで言う事は『今日の芸術』で岡本太郎が言っている感覚至上主義又は主観至上主義を、別の言い方にしたにすぎないともいえます。車輪の再発明をわざわざせずとも、主としてあなたが欧米文脈主義の普通言語還元要素を否定的に扱う要素が、岡本の美学に若干付け加えられただけなのです。