2007年1月6日

審美論

芸術の目的は質でなければならず、量という概念はいずれ犠牲にされなければその普遍的定義を十全にまっとうすること能わない。人が以上の命題を精密な理解で達するには次のことを一考してみるで事足りる。
 個人の独創は生涯という時空間の限定の範囲でのみ有効な理念でしかあり得ず、同時にそうであるかぎり、芸術はその他大勢へ範例を垂れる為に叫ばれる合格適意の尊称にすぎない。よって創意の抽象でたとえば文芸において、君は後世のとるにたらぬ衒学者の連中が、同時代の制作上の生産技術力水準に比するある芸術家の個人的な創造的努力の成果を謂わば揺るがぬ権威として定義する場合を散見するやも知れぬ。
 日本の文芸に限って言えば、我々は物語の出来栄えがかの作品が有した量の故にさえ突出していると認識させられがちである。しかしながらこの視点は誤りだ。我々は作品の質の故にその芸術を記憶しているのである。実際、かの場合についてはその文芸的な質を達成するために否応なくある一定の長さを要しただけだ。むしろ長々しい物語という形式に頼らなければならなかった分、それはかの作者の結晶力的無能を意味してもいる訳である。彼らは自分の信ずる作品上の質を達するがためには時代の平均生産量に対して相対的に多くの叙説が必要だった訳だ。つまり、量感そのものが作品の本質的実態に仕組まれた場合もなきにしもあらず。だが同様の破格の場合を我々は鑑賞しうるかもしれない。無論君がもし注意深い芸術思潮の観察者なら、真に傑出した作品は必ずしも莫大でないのを観るだろう。芸術にとって重要なのはいつでも、時間的あるいは空間的な容量ではなく、その創作が到達する時空の質に他ならない。そうであればこそ、芸術は万人へ万世開かれた作為の競戯であることができるし、又その可能性の体制を維持し続けることこそ芸術史の最高の命題なのであった。
 結局、無知が量を審美観の対象に付するなら世人の趣味は少なからぬ過ちに導かれるだろう。というのは、我々は作品自体の到達した美の境地をでなくその量を愛でるなら、まったく取るに足らない多くの俗物の結集を当世文化の粋と取り違えて美学者面で蝶々する弊に陥るに違いないから。