2007年1月3日

場面音楽論

音楽は場面に合った雰囲気をつくりだすための機構である。まず音楽家は自然の中にこの音楽的演出性のための最初の例をみいだすだろう。森の葉ずれの音、清流のせせらぎ、砂浜の絶え間ない波浪、雀や鶏の鳴き声、工場の音、戦乱の音、飛行機の航空音、バイクのマフラー音、高層ビル建設の音、コンサートやライブという演劇体験のための音、CDに納められ生活の中に入り込み時代をあらわす流行歌。
 全て我々を取り囲む音楽環境とは場面に対する演出装置の役目を果たす。
 実際、人間の聴覚が地球環境の基本的空気・空間構成にとって合生存の中庸適性を持って成立したのは確かである。そして我々が楽器という方法を用いて、この適応感調査のための感覚を合目的再創造に用いうることを覚えたとき、音楽はたんなる実利のためだけの存在を越えて虚構の定義を獲得した。そうして生活の感受的雰囲気を、程度をもって人為的に操作する機能を持った。
 アンビエンスという用語は音楽のこの様な現代における機能的側面を定理として言い表したものである、と考えてよい。
 音楽家はもはや、流れる場面というものを無視して現代音楽をつくることはないだろう、市場掌握の手法。一方で、場面を超えた普遍的構成をたんなる純粋音楽の為の命題として芸術する指向は否定されるべきものではない。
 一度市場で共有されれば作品の流れ方は必ずしも予測できない。音楽家が同時代を代表する名作を合成するべく試行せねばならぬのは、場面と音響とをいかなる関係のもとに作曲するかという課題であるだろう。事実、作品はなりひびく文脈から完全に離れて成立することはなく、また同時にその形態性という特性上、文脈にのみ完全に依存するものではない。
 我々にできるのは場面と音響との緩やかな繋がりをある調和的な作為の元に再生するだけだ。