2007年1月2日

政治参観主義

以下哲学者は同時代政治にどの程度かかわるべきかの問題を解く。理論的指導という命題は常に、哲学者の政治術にとり現実的。学究閑暇の欠如により、哲人政治家の政事やまつりごと実践は不完全なものにとどまらざるを得ない。現実の代表使者は応急のため、理想的哲学者は永世のためにある。近遠の方法論確立が彼らの職能差異。日常市民言論の福祉向上と社会学的功績が、哲学者の政事にとっては最も適為だと考えられる。主として前者は議論の善導により、後者は政治学献での達見論述による。大秦王安敦の如き哲人政治の成功が史上一般に可能だったことはない。有能な政治家は指導実践術に長け、だが必ずしも理想的ではなかった。我々には始皇帝へ学識的に馬鹿の分子をより多く看、孔子の中により少なく観るのが偶然ではないと知れる筈だ。政治術には野性の狡智がしばしば必要であって、政治学には特に文明の理念が必要なだけ。智略の用法は文化多元的。哲学者は世論の側から批判することが民主主義の文明化へ役立つと知る。よって彼らの仕事は政治参加ではなく、目指しうる限りでの在野な独立された政治の理解でなければならない。我々は実存主義思想をこえて、言論は政治的実践とは独立した見識であればこそ哲学的であることを認めうる。言い換えれば政治的拘束から自由を目指す善導の源にのみ、philosophyの当為を見てとる。なぜなら理想は功利へかかわらずの最高目的、即ち政治学的世界市民主義の基本原理。そしてそれが実践術の理念を永きにわたり統括する役目を持ってこそ、哲学は史上政治学の水準を達成する。単なる政策は実用主義の範囲に属するものであり、理念にとり使い捨ての道具であるに過ぎない。だから時と場合により価値が変動し、すなわち同じ策でも善し悪しの境界線を流行曖昧中にしか見ない。
 私は暫く以上をもって哲学者の政治参観主義を唱える。彼らが担うべき言論政は大衆向け短期につき学者向け長期につき、あるいはまた賢衆へ向けた中期的見解にあれ在野独立の地位にあってのみ正義であると考える。我々は功利主義とは無縁の自律福祉術を追求するためだけに、政治的立身や具体的献身の成果を棄てなければならない。尤も、この最後の文脈が経済功利を否定する内容ではない事に注意せよ。ここでは政治学的功利主義とは公民制裁理論としてのそれを意味する。