2007年1月7日

文明の救済性

全知全能の神という仮定は道徳律の究極目的を定めるにあたり是非とも必要だった。実際カントはそうする事で彼の形而上学の体系を完成させた。
 今日我々はこの神格という理念を、単なる人格神という偶像に捧げることはできない。大衆の理解にとってはいざ知らず、形而上学の進展は主体の他の言語概念を隈なく相対化した。
 我々の信奉する理性は究極目的としての神格を形而上の命題と考える。そして全自然の解明が終わる日が来ても形而下にこの対象が姿をあらわすことは決してない。
 勿論、それは自然外の仮象だからであり、我々の理性が自ら理想する定言命令を実践する限りにおける研究対象だから。
 我々は後々に至ってさえ、哲学者の中に知恵の不完全な発表を観るに留まるだろう。にも関わらず、理想的にしか現実における神格の仮設は不可能である。
 人間は啓蒙をこの世の最高善と見なすだけにはあまねく倫理的に産まれついた、と敢えて言うことは人類上の正義の原則へ些かも劣るものではない。なぜなら彼らの文明は道徳的義務へ奉仕する以外にはいかなる意志をも持たないような主体についてさえ、知恵の求道的獲得および相互伝承への献身を社会の内部で追求させる他には、実践困難な命令を与えるほど不条理ではない。
 我々は義務の遂行を自由の範囲に定義する道徳的批判によってのみ、あらゆる想定にまつわる絶対善行の推究を個人の自律による判断の可否へいなし、従って社会的に相対化すると共にそうして多分の凡庸な人物たちへ時に応じて啓蒙の機会と事後合理化による救済の余地を与える。