2007年1月6日

歌唱術及び芸能論

歌唱なる音楽形式の限界は固有の芸能性にある。その内訳は結局、歌手の声音という楽器は個性の所残である他ないからだ。歌唱の音楽性はどれほど人間味に溢れた傑物による表現に依るのであれつまりは個性の自己顕示である他ない。従っていかなる天才による歌唱といえど最後まで芸術的な普遍性を獲得することはないだろう。我々は虫や獣の類が求愛のために歌を吟う場合をよく観るし、例えいかなる楽器類や手法を用いていたにせよ、人間が日々大衆の面前で飾り立てつつやっていることがそれとさほど変わらない事実を観察するにつけ、歌手という自称・芸術家へは冷めてなおぬるい感慨しか抱き得ない自分に気づくに違いない。そして彼ら動物側の歌曲はしばしば下手な歌手より高尚な趣に満ちている、というのは言葉を知らない彼らは意味を持たない純粋音楽へ興じるにはより適した環境にいるからだ。
 夏休みの鈴虫の風流な合唱とか、曙に合わせて毎日開かれるスズメと鶏の賑やかな演奏とか、深い森の奥でのカッコーやミミズクの寂しげな演出とかは殆どの人にとって好みに合わないうるさい流行歌、よりは普遍性を持っていると、感じられるかもしれない。
 実際、流行の文学性と音楽性とを適当に帯びた「私小説的な」芸能活動としていわゆるpopsは現代の低級大衆向けの大きな市場なのである。そしてこのようなベクトルはビートルズ以来のrockというgenreの成立から端を発し、今後も少しずつ時流に合わせ変形されながら、応用芸術の一種としてmass cultureの一部を担っていくのだろう。
 純粋音楽として充分鑑賞に足る楽曲でさえ大衆向けの人気を確保するために、歌詞と声色の個性的な芸能人との演技表現のために応用させられる現実に対しては、量産化の可能にかこつけた質的低俗化という一点の読み方で充分なのである。

 尤も我々がこれに一般に預かることについて音楽芸術の市場化という利点も見逃せない。従ってかしこい階級の上品な人物はこれらの動向を静観するだけでなく、却って煽り為してより高次な基本芸術の成果を大衆社会へ解体伝播させる努力に事欠かない。そのため、彼らに偶像性をこぞってまとわせ、更にstarを演じさせてピエロに仕立てて操り、大衆市場の掌握へ利用する訳だ。

 歌手がためのstarさあるいは偶像さ、idolさは、他のあらゆるiconと同様に、ideaの仮象的な存在化であり、多少あれ理想的価値の退廃を含むものだが、そこには偽造されたauraへの崇拝を通じて市場の独占体制を宗教化する、というproductionの意図に適うだけの必然性がある。
 我々はすべてのstarは偽造であり、あらゆる偶像は贋物である事を既に目的論の次元で知っているが、各形相の存在論的価値に関するかぎり、彼らピエロが一定以上の商品形態としての流通価値を持つことも又、容易に疑われまい。従って「音楽芸能」としてのpop musicをあながち無用の産物と見なす訳にも行かなくなるだろう。例えば文学においても、近来同様の市場化手法の援用が診られるのは偶然ではない。それらはmass societyへの芸術流通の応用から産まれてきた傾向であって、一概にたんなる一時の社会現象にすぎないとして否定し得ない。
 だがこういう芸能化が行き着くところは最終的には知れており、すなわち「人気、popularity」の演劇的実現、という世界精神に結実するのみである。そしてそのような役者あるいは有名人の社会的醸成とは、謂わば英雄、heroとか姫、heroineそれ以下の脇役などの文明内活躍を通じてある人間的模範たちの時代劇場を伝説化しようとする総合芸術からの要請に基づくのである。よって、こう結論できる。我々はたんなる舞台演出術たる純粋芸術以上のより高次の、芸術的総合の結果としてそういう、ある時代の主要登場人物たちの活躍を期待しているのである、と。そういう星々の瞬きは宇宙の調律とまったく変わりあるものではなく、それが故に限りない崇高美へ続く唯一にして最高の段階であると考えられねばならない。