2007年1月6日

文芸論

私は新造形主義、特にモンドリアンが『新しい造形』の中で述べている音楽や文学を含める普遍的総合芸術様式の確立を不可能だとは思わない。否、近未来にそういう構想は近代文明の名を借りて、人類史内へ浮上するだろう。いわゆる大衆社会がこの様な汎神的文明環境へ適合するために台頭してきたのはほぼ間違いがない様に、この時代からは見える。しかし、文学に関する追求を通じて、芸術家としての私個人はその論旨がたんなる敷衍の方式では決して建立できないと悟った。例えば各地域言語は固有の語族文化をもち、殆ど普遍化に耐えない。
 文芸における普遍化は、他の工芸に比べてずっと困難な過程を経なければ実現され得ないと私は思う。単なる明喩としての文脈という極めつきに重たい、固有の命題を背負っている事からも、音楽や造型美術より遥かに遅れてしか発展しない文芸或いは詩劇は、それでも翻訳という便宜を通じておおよそ国際的に実行されていくに相違ないだろう。文芸は内容表現上の展望に関するかぎり、無国籍の段階を経て次第に別の体系へと収斂していく。これは音楽の様な唯単なる音の越境に対して、差異を一層拡複しながら共感という段階で世界市民的な同胞感情をつくりだす様な営為である。
 我々は音楽内の歌詞においてすでに、こういった文芸的展開の端緒を鑑賞した試しがある。同じく、純文学(これは日本の文脈での反大衆文芸という内容に限らない、純粋芸術として文芸)の範囲では、いわゆる世界文学に加わる語族が広がりをもつ程に、彼らの扱う言葉もまた、普遍主義にふさわしい様相を帯びるに至るだろう。
 文化の多元さが文芸という造型芸術を発端に建設されていくことは間違いがない、と言って構わない。それは語族並立的であることによってしか決して現象し得ない芸術展開上の場面に、文明がもはや達しているからだ。