自然精神は人間の遊戯的本性に応じて限りなく創造されていくような計画。
我々は自律した主体としての人間精神がかの究極目的と益々一致するのを文明の建設に連れて観るにつけ、最高の実在としての精神を万世至上の理念と見なさぬわけにはいかない。
又、究極原因としての神なる仮称についても、精神の種内現象に由来するのは明らかだ。それは当為たる最適化への方便。
例え夢想の中で生化学研究の終局が来た日にも、我々は精神の実在を世界現象以外のいかなる隙間にも見いだせないだろう。
思えば精神という概念は決して純粋理性の範囲に存在する事物ではない。
結局、我々にとって運命の根源に遡ることだけが、その理念の内容をよりよく知るための道だ。かの努力のため今日に最も普通に使われている名詞が哲学。悠に、人間が理想のため生きる行為はみな本質的にこの哲学の姿。
宇宙と文明は最良の点において調和する。人間精神の再創造はその自然精神の遊戯人たる本性。