2007年1月4日

近代的理性への反省

比較的優れた知能を誇る動物が居ても構わなくとも、彼らが唯我独尊の境地で理想を最高目的と自省する事には幾分かの偽善がある。
 彼らは単にいくらかの知能という特徴を持つ進化の枝葉にすぎない。彼らに相対的存在価値があるかどうかはいずれ環境が決める。勿論我々の脳髄にはつねなる容量的限界があり、恐らく宇宙最大級の知能特化型生命のはずはない。
 人間の道徳は人間のための道徳であり、他のための形而上図像ではない。
 彼らが自律性を認識し、環境への適応行為を理性的に創発しうる限りにおいて、人間の存在価値はおのずから仮設していけるもの。善は我々の文明にとっての合倫理性を試す語義。よって、かつて理性は我々が人間とみなす以外の生物へは適用し得なかった。
 何らかのための手段をとらない理想する行為が、善意志の最も純粋な表現である事は疑われないが、それを生の目的にするには我々はあまりに縁起的ないきものではないのか。実際に、善意志は人間以外の動物へ対しても必ずしも愛玩の道具としてだけでなく、たんなる適意として養護という命題を課す。われわれは道端に捨てられた子猫のたぐいへただの同情から保護するかもしれない。
 我々の理想は己れが繁栄を嘔歌するための演技というだけではない。生物への福祉環境を自由の範囲で調整する機能。謂わば理性とは自然の道具であり、古代人類が妄想したように無比の能力ではないだろう。我々はさほど遠くない日に、生化学的にこの精神現象の客観的な仕組みを解明できるだろう。
 理性の範囲を狭く、人類の適応行動の適性に限定して反省しなければならない。まず種内における、そして種外へいたる行動原理の普遍的・形式主義的確立が現代倫理学の命題に置かれねばならない。