今日までアニメはある種の人々(一般にオタクと呼ばれる)の信仰対象になっていた。それは新興宗教だった。
以前、あるアニメ(『けものフレンズ』シリーズ)をみろとそういう人達に奨められ、なんとか苦労して全話みてみた上で、主に美術の批評言語を使って率直に感想を述べたところ、その種の狂信者から大変しつこく誹謗中傷された。それで私は気づいた。アニメは或る一部の人々にとって正真正銘の宗教なのだと。信者の中に批評言語は持ち込まれない慣行になっている。だから私がちょっとしたきっかけ(アマゾンプライムビデオに入ってみた)で一時的にひきずりこまれたその業界中では、同調か全拒否どちらかしかできないのだった。
アニメは手塚治虫やディズニー辺りから流行しだした新たな映画の形式といえるだろうが、その商業芸術が主な客にしているのは一般大衆の中でも子供や、特に幼稚な大人達である。宮崎駿でさえ子供向けを前提にしていたから、総じて知的障害に近い社会不適合者を大勢ひきつける結果になるのは必然だった。
私が何とか苦労して或るアニメを全編みてみたのは、そのアニメのファンがネット上で制作陣を執拗に脅迫していたのを知っていたからだ。アニオタ(アニメのオタク)による猟奇的事件を引き起こしている作品とは何かを確かめてみたのだ。結果はひたすら幼稚な中身で、制作陣がどれだけ意図していたかに関わらず、反社会的な知的障害ボーダー(ボーダーは境界例の意。以下、しばしば知的ボーダーと略す)層を煽っていたのだった。
京アニの作品は1度もみたことがないから中身については何もいえないのだが、昨今アニメをとりまく状況は嘗てのものとは全く様変わりしている。それは上述のよう反社会的で精神遅滞に近い人々が大勢、新興宗教として崇める対象になっているという点で、過去のアニメ界とはまるで質が違うのである。
アップルCEOのティムクック氏が京アニに同情の様なツイートをしていて私はこの事件について知ったのだが、彼はアイフォンの主要な顧客層である日本人全体の中でも、京都に新たな店舗を設置したところなどから、現代アニメ界をとりまく社会病理をまったく無視して単なるテロとして扱っていると思う。
他の大衆娯楽、たとえば(これも京都に本社がある任天堂に縁が深いが)ビデオゲームとか、映画とか、漫画、小説みたいなものとアニメが「サブカルチャー」としてほど近い位置づけにあるのは確かだが、現時点のアニメはほぼ深夜テレビなどで提供される無料の娯楽で、いってみれば下流の慰み物なのである。
村上隆氏はアニメの無教養(Lowbrow)な性質を、知的な文脈操作で欧米美術史に皮肉な位置づけで乗せ有名になった。端的にいうとアメリカのポップアーティストが漫画に素材をとったのを日本からの文化越境版で流用したのだが、一時的に彼の援護的唱道者だった東浩紀氏らも、アニメに公民権を与えた原因だ。
なにがいいたいか。漫画好きで知られる麻生大臣の下にある日本政府が、クールブリタニアを表層的に猿真似した文化政策であるクールジャパンでアニメにお墨つきを与えたのは、間接的に東京圏のスーパーフラッターが影響している。同時期は東氏に親しい猪瀬都知事が都庁に在籍していた頃で、猪瀬氏、村上隆氏、東氏らは鼎談もしていた(猪瀬直樹・村上隆・東浩紀「断ち切られた時間の先へ――『家長』として考える」『思想地図β』第2号。2011年5月7日の鼎談)。要はアニメの暗黒面は一部の文化利権と癒着した日本政府・東京都庁により意図的に無視されていたのだ。
アニメは「わかりやすく」「子供に愛されており」「みなが大好きな」「誰にとっても望ましい」「外国人にも大人気で」「日本文化の象徴」といった凄まじい厚化粧で美化されてしまった。背後には労働集約的手描きの不合理な制作、過酷な長時間労働の地獄があり、知的ボーダーの客層による退廃があった。たとえば同人誌という分類がある。二次創作という名目でアニメキャラに、変態性欲の性行為をさせた独自の漫画作品を販売するとんでもない退廃主義的世界が、東京コミックマーケットを中心に勃興していた。石原都知事の時代に都内の出版社が出していた猥褻漫画の一部は18禁化されたが、同人誌の方はもっと過激で、堂々と非実在児童の性を表現していたりもする際物だ。
美術史の中ではバルテュスを筆頭に、その種の児童性愛の表現や、ギリシア美術とか江戸の春画などに由来した変態性欲的なエロス表現は多かれ少なかれ容認されている。つまり同人誌もサブカルの派生物として、未来では平成・令和期の主に東京での大衆芸術の姿と歴史化されてはいるだろう。
京都は中世、「上方」と称し、大衆蔑視の高踏的な文化傾向を自認していた。が上述の任天堂や今回被害にあった京アニはそうではない。京都府民の一部は東京文化を自らとりこみ、程あれ低俗な大衆芸術を販売しはじめた。これは質的変容でもあるし、アニオタによる炎上事件の伏線にもなっている。
サブカルなるものは低俗で無教養な一般大衆を相手に客商売するところに発生した。しかもアニメは単なる売り上げの為ますます「大衆の中で最も愚かな者」を最大公約数の客層にしようと幼児退行じみた卑俗化を極めていった。その極点に起きたのが某アニメ制作陣への脅迫事件(けものフレンズ脅迫事件)や今回のリアル炎上事件(京アニ炎上事件)なのだ。
今日、アニオタと呼ばれる人々には、おそらく東京のキー局によるテレビのニュースでコメンテーターが訳知り顔でいいそうな「犯罪者予備軍」といった客層が確かに含まれている。それは例えば高IQな知識人とかハイカルチャーの客層(日本ではほぼ絶滅しているが)に比べてより多めに含まれているだろう。なぜなら、上に述べたとおり、東京や京都のアニメなるものは金儲けを目的に、できるだけ量的に俗受けする為、どんどんと卑近な表現に自らを変質させていったからだ。要は、下流相手に客商売しているので、当然ながら犯罪者や反社会的な知的ボーダーの部類もアニメファンには含まれてしまうことになる。なお私はここで知的障害者とか、IQなどの点で知的障害との境界例の人々全てが反社会的だというつもりは更々ない。この点で私は差別から自由なので(例えば恋人も知的障害にそれなりに近いIQだったり、精神科医からは自閉症スペクトラムに分類されている人だったりする)、はっきり強調しておきたい。
なぜ彼ら下流的な知的ボーダー層に昨今のアニメが宗教とみなされているかだが、私のみたかぎり、彼らは知識社会に全然ついていけていない。当然ながら幼稚極まりない娯楽作品しか理解できない。資本主義の手順に従い広告費やグッズ販売などを目的に次々流される深夜アニメが彼らのたまり場なのだ。ニコニコ動画は、今では国際レベルでビリビリ動画にお株を奪われたが、嘗ても今もこのアニオタ層と極めて親近していた。2chねらーを誘引した西村博之氏らが匿名コメント機能をつけたので、名誉どころか恥も外聞もない反社会的犯罪者との境界例にとって極めて心地のよい居場所になったからだった。
もう一つ、注目すべき事件があった。悠仁親王をアニメ『エヴァンゲリオン』内で引用された、ロンギヌスの槍とほぼ同じピンク色に塗った二股の刃物で、或る被疑者が脅迫した事件だ。この槍は神学上、磔刑後のイエスを突いて聖性を否定した遺物とされており、神道に於ける王権神授説の否定を意識した事件だったろう。
アニメオタクはそもそもが、虚構を現実と少なからず混同し易い脳の性質の持ち主が大半であろう(例えば現実の日本国内の場所を舞台に虚構のアニメを描き、両者の混同を聖地巡礼といって肯定的に賞賛する等。本来の聖地が諸宗教をめぐる神話、歴史、聖人ゆかりの地に起因している点からみれば、アニメのそれは単なる虚構内の俗人らの背景にすぎないかぎり、完全に俗地巡礼といいかえるべきだろう)。さもなくば作り話にいつまでも夢中になるわけもない。いわゆる偶像崇拝の禁忌という私徳に弱い人達が、アニオタのかなりの部分といいかえてもいい。この点では、ポケモンGO等を禁止した一部のイスラム法学者は正見を述べている。そして虚構と現実を混同し易い脳は、一般に子供の時点でそうなり易いのが経験的に明らかなかぎり、いわば精神年齢の低い人々により多くみられるはずだ。つまりアニオタは単に批評言語が拙いだけではなく、アニメ内で表現された思想を宗教的に鵜呑みにしがちで、かつ知的ボーターも相当混じっている。
私はこの様な現今のアニメをとりまく事情に対する認識から、大なり小なり類似の自堕落がみられる他のサブカル(例えば小説とかも)含め、一切近づかないことにした。その内部にいる人々は特定の宗教信者とほぼ類似のエコーチェンバー(残響室)内にいると自覚し、サブカル批判を進んで行うのが賢明だ。