2019年7月21日

京アニ炎上事件の総合分析

きのうから今日にかけて、5つの小論()で京アニ炎上事件について自分なりに分析した。が、まだなにか違和感かんじるので、今からさらに、もう少し詳細に分析しなおす。

 村上隆氏(以下、同一人物の二度目以降は原則敬称略)がインスタで、急成長した京アニへのねたみがルサンチマンに転化したと分析していたことは既に最後の小論で述べた。自分がまだ違和感を感じてるのはこの点だ。
 もし本当にそうなら、なぜツイッター民や報道機関など外人も「殆ど全員」が京アニ礼賛しだしたのか?

 殆ど全員と書いたけど、正直私が観測できた範囲では私以外の全員が、大してしりもしないだろう京アニ礼賛しだしていた。これは事件のショックであらわになった「サブカル俗物根性」(低俗スノビズム)の発露だろうと3つ目の小論で分析した。ではなぜ関係者もそうしたか。
 思うにアニメ界に精通した関係者の中には、実は「痛快だ」とシャーデンフロイデを感じている者も、村上隆の考察が正しければ、混じっているのだろう。しかし表向きこれをいえないので、建前として一斉に哀悼している。
 全体主義やファシズムじみた、全会一致の幻想は、道徳警察の場でも生じる。
 イエスの弟子らは師が濡れ衣を着せられ磔へ歩む間、衆愚の後ろに隠れていた。京アニアンチ(過激派含む)は憎き教団本部の炎上中、じっと黙ってサイコパスな痛快に打ち震えていたか、表向き沈痛がってサブカル俗物衆の合間でひそかに現場を見つめる三島由紀夫『金閣寺』犯人式のアニオタ的イケズを発揮したのではないか。
 京都市長・門川大作氏の「火事は3分、10分が大事。選挙は最後の1日、2日で逆転できる」発言(2019年7月18日夜、京都市上京区で行われた、参議候補者集会での演説内発言)は、およそ文脈的にイケズなるものの漏れといっていいかもしれない。イケズ文化は言葉が政争の武器だった公家の習慣からきた、他人の不幸を祝い、性悪な嫌味を楽しむ世界観なわけで、痛快好きはその中ではある種の常態とも解釈できる。門川は対談相手に、京都人のイケズなんてさらっと聞き流せばいいといった(京都新聞掲載、第十三回「ひと」2011.7.31)。イケズをそこまで深刻に社会病理とみていないのだろう。が京都の虐め発生率が長年最下位(つまり飛び抜けて虐めが起き易い地域。反証として京都の公教育が特に、敢えて軽い虐めでも隠さず認めているという留保的な意見をみたことがあるが、根拠はなかった)だったりする原因の一つかもしれないし、特殊なミームなのは確かだ。
 で、京アニ炎上事件で、犯人自身がそうだったよう潜在的に極めて多いはずアンチが雨後の湖みたいにしんと静まり返っていた、それどころかファン(信者)の国外逃亡を受け知ったかサブカル俗物ぶりを発揮するメディア芸人衆の偽善に同調してさえいたのは、道徳警察としてのイケズ化だと思うのだ。本来、正直なアンチなら「ざまあ」とか、「いい気味だ」とかツイッター匿名アカウントくらいならばんばん言っていそうなものだ。やまゆり園大量虐殺のときは障害者アンチが、東日本大震災のときは2ちゃん衆愚がまさにそうだった。なぜ京アニに関してだけイケズ化したのだろう? 京都の事件だから? 
 火事でおもいかえせば『枕草子』(能因本293段。三巻本の大系314段、全書296段)に、当時の皇族は、火災で家財全てを失って命からがら皇族の家の一角に逃げ込んできた庶民を、言葉遣いが下衆だ何だと笑い飛ばし、よめもしないだろうとイケズな歌をかきつけた短冊を渡し追い払ったが、それを清少納言ともどもつくづくおかしがったと書いてある。当時の平安貴族の感覚からいえばこれは本当に愉快だったのだろうし、人権確立済みの時代から激しい身分・人種差別の記述として責めるのは実に簡単だが、門川の火事は最初の10分、選挙は最後の1日発言はこれとよく似たイケズ文化ミームの残滓にみえなくもない。勿論ただの確証偏見かもしれないが。
 この推測が正しいといっているわけではないが、京アニなるものは洛中中華思想からみたらだいぶ格が劣るものなのではないか? これはTHE京都市民たる中世洛中人にアンケートとらないと有意にならない上にそれは彼らが容易に本音を言わない以上無理なので、結局ただの憶測で終わるのは明らかだが。

 まだ外人には全然分析しきれていないまさに京都文化論になるが、3つ目の小論でも一瞬だけ触れた観点として、「京都は観光客文化により外部者が褒めるものを内部で見下すねじれた中華思想をもつ」のは、たとえば八橋への地元人からの評価などでいえる特有のスノビズムだ。
 下らないの語源は「上方から江戸への下り物」を江戸側からみて高級視していた名残、つまり京都ブランドこそ一流の品物みたいな俗説がある(サイト『語源由来時点』くだらない)。引用元にも書いてあるが、これは「下り物」が使われる様になる前から「下らぬ」が使われていたため誤りの可能性が高く、「下る」が「通じる」という意味、その否定は「筋が通らない」、転じて「とるにたりない」の意味となる語源の方が、信憑性が高い。
 つまりだ、京都文化、特に洛中中華思想では平安京から続くなんらかの伝統工芸に比べ、新参の東京者をまねたアニメ様式は、おそらくだが格下と感じる価値観が潜んでいる。これは京都市による「世界文化自由都市宣言」(1978年)にみられる新旧融合を掲げた自文化中心主義からすると、内部摩擦なのだが。

 こうして、空気に流されるという日本人一般がもっている欠点が、京都文化の中ではなんとなく格下かもしれなかった京アニ炎上でも一人も「悪魔の代弁者(反証のため絶対反論する役割の人)」がいない同調圧力に結集した。それで本音を表明しづらくなったアンチらはイケズな嘘の礼賛に加わったのだろう。
「人が殺されたのはとても悲しい。哀悼する。だが京アニはダメだ」っていうのが、まあアンチとしてあるべき態度といえるでしょう。「京アニは神、社員は聖人のみ、世界最先端のフェミニズムなアート環境で何の落ち度もない全サブカル総本山」みたいな扱いには違和感しか感じなくて当然といえるだろう。
(例えば極論の喧伝で却って自見の逆説に気づき易くなる人がいた、なるイスラエル・パレスチナ問題の実験があった。"Paradoxical thinking as a new avenue of intervention to promote peace" Boaz Hameiri etc. PNAS July 29, 2014.)
海外含めメディア全体の狂気な京アニ礼賛が極端すぎるので、恐らくみていた人の何割かは矛盾や違和感に気づいて逆張りアンチになると思う。そしてその直感はサブカル総論として正しい面が大いにあると、5つ目の小論で示した。中二病の社会病理が信者の発狂でばれたのだ。
 事は京アニ単体にとどまらず、実際には中二病患者(まだ精神疾患として精神医学界で未認定だが)を客にしている全サブカル業界が、いってみれば社会不適合の精神障害者を食い物にしていると露悪しているのだ。「ほら狂った宗教だった」「オタクの気持ち悪さって一部正論だったじゃないですか」(オタクへ向けられる世間からの差別的偏見を私が肯定しているわけではない。その直感には、業界ぐるみで弱者ビジネスをしていた点で、そしてその弱者自身が多かれ少なかれ精神を病んでいたという点で、質感として根拠があったといっているのだ)と。

 クールジャパンとかいってサブカル業界を公認してしまっている文化庁の立場も、簡単にいえば内ゲバ喰らったくらい危うい。実際のオタクは適応障害だったのに食い物にしていた、と糾弾されかけていて骨組みからのぞいているおぞましい疾患部位を、方々のアニメ研究家とやらの戯言で糊塗しているわけだ。勿論、現実の中二病患者、たとえば朝から晩までアニメみてその登場人物と会話していて、社会参加といえば二次元キャラとの想像上の交遊のみとか、サブカルグッズに有り金全部はたいて破産してもまだ萌えもえいってるとか、そんなの差別しようもない。「クールジャパン」の一部は治療が必要なだけだ。
 これまでは村上隆、東浩紀の両氏らオタク・イデオローグがアニオタを東京発のクールな文化現象みたいに言い繕っていた。けど実際は一般社会についていけない弱者が新興宗教にしている世界だった。しかもその教義は萌えとか一部言語化されたけどほぼ無言の同調圧力しかなく、結果、凶行で否定する信徒が出た。アニメ教団の内部で、京アニがいうとおり「この数年」、脅迫的な圧力が高まっているのは、アベノミクスで生じた格差の底辺にいるアニオタ信徒にとって鬱憤の捌け口が必要になっているからなのだろう。彼らは魔女裁判の対象を探す。それがたまたま『けもフレ2』制作陣、悠仁親王、京アニになったのだろう。

 もしオタク業界が科学や哲学といったハイカルチャーに接近していたら、美術業界でそうある様、前衛運動みたいな理知的傾向に昇華されていたはずだ。ところがサブカル全体は反知性主義の極みで、大衆・商業傾向である。私小説業界も自堕落だったが、アニメ界はお洒落でもなんでもない狂態を示している。
 私の見てた限り、マーケティング作品と公言され観客動員数を伸ばした新海誠氏『君の名は。』が、家族みんなお茶の間でみるジブリ映画からお洒落路線に舵を切ろうとした一つの目印だった。妻は女優、クールジャパンの追い風、アニメーターも芸能セレブの一員的流れが都内マスコミにお膳立てされていた。『新世紀エヴァンゲリオン』の病み路線の方が、正直、オタクなるものの本体をきちんと表明できていたと。新海は作られた象徴、東京の広告業界代理人の搾取意図を全部流し込み大衆迎合のみを目指したアニメ文脈からいったらとんでもなく下賎な代物が『君の名は。』で、比べれば飾り気のない私小説的内面吐露を含んでいたエヴァ監督の庵野秀明氏は偉かったのだ。
「オタクは見た目も気持ちが悪い、おどおどした弱虫で、男として自信がないどころか実に情けない自慰に耽るばかりの下らない、無力で、なんのとりえもない雑魚なんですよ」というキャラ設定の碇シンジを自作の主人公にした庵野は、軽薄なトンキンチャラ男(トンキンは東京の唐音で、最近では東京を否定的に呼ぶ際の蔑称にも使われるネット俗語)みたいなのを美化して描く新海より正直だった。
 じゃあ京アニは? 京女らしさを表現してるとかなら『源氏物語』から続く文脈として漫画『はんなりギロリの頼子さん』のがよっぽどよくやっている。日常系にのっかった馴れ合いほんわか世界。別に独創ではない。ありふれた文学的ミニマリズムの引用で、『ご注文はうさぎですか?』みたいなもんだ。
 つまるところ、村上隆のインスタでの分析冒頭にも書いてあったけど、京アニは表面上かわいい女性向けアニメっぽくはあったがターゲティングとして余りにストライクゾーンを広げていて、はからずもガチオタにまで届いてしまう形の表現をしていたわけである。新海とは違う意味で、顧客を間違えたのだ。

 まあこれで大体、違和感の原因がわかったぽくもあるから筆を置くが、まとめると
1.京アニ炎上でサブカル界の危機と感じたアンチも一時的にイケズ化した
2.クールジャパンは適応障害者(中二病患者)を搾取対象として美化しつつ隠蔽していた
3.マスコミはサブカル俗物となってこの搾取に共謀した
4.ネット芸者やアニメ研究家と称する外人なども悪意如何にかかわらずこの搾取に共謀した
5.京都文化で無意識の格下扱いかもしれない京アニ炎上は同市長のネタになった
6.比較的誠実なアニメーターはオタクの社会病理をほどあれ表現していたが、俗物はお洒落ぶって中二病搾取を正当化していた

 ついでに書くが、「観光客文化」は京都以外にもある。地元人が好む本物と、外来者がそうする偽物はおよそ違う。が世間的には、いやもっといえば地理・歴史みたいな学問レベルでもこの偽物の方が代表扱いされているものだ。尤も不完全ながら本物をなるだけ考察しようという民俗学みたいなのもあるが。
 京都は、特に同市長の様子として、自ら過去に宣言した文化首都イデオロギーで縛られていて、外来者からの観光都市扱いとの間で生じる自己像のギャップで、同一性危機になっているのが観察される。色々門川は理屈をたて二重基準を解消しようとするのだが、文化庁・皇族招聘が最終手段にされている。皇族の政治利用が御法度なのは論を待たず、1978年の宣言は学の進歩の中で時代遅れになっていて、少し上述した様、いまでいえば自文化中心主義(エスノセントリズム)でしかない。そしてそれは中世の京都中華思想を延長させた一種の自己愛妄想なのである。文化多様性は中心がないし、一元的目的づけとも相性が悪い。
 したがって観光客文化として、地元人が外来者のやたら褒めるものと自分が好きなものとのギャップで面食らうというのは、需給の面からも普くありうる話だ。京都の場合、日本随一の国際観光地になっているので、内外評価ギャップが日々拡大してしまい、余計に観光客文化の性質が激しくなるというだけだ。