2019年7月22日

言語帝国主義の批判

英語圏情報に偏るのは英米中心主義(英米を世界の中心とみなす世界観や物の考え方)を免れない。いいかえれば英語圏は世界の一部に他ならず、他言語で語られた情報の殆どすべてをカバーできていない。
 これは英語だけでなく、日本語の中でもいえて、方言の世界、アイヌ語など少数言語の世界を標準語圏はカバーできていない。言語外の世界もある。

 私は英語帝国主義、標準語帝国主義などの言語帝国主義に反対だ。これらの傾向は自文化中心性を背後に忍ばせているので、他言語圏へ侵襲的に振舞い、異言語圏の植民地言語化(クレオール化)を促す。結果、人類の自由は情報のみならず、思考の面でも特定の言語帝国の利害に回収されてしまう。文化的枠組み切り替え(Cultural Frame Switching)の考え方によると、人は使っている言語によって性格含むなんらかの思考習慣自体も変化するかもしれないわけで、この点でも英語的思考癖が人類全体の思慮に盲点をもたらしたり、思考様式を含む文化を多かれ少なかれ一様化してしまう懸念がある。

 言語権を多言語主義で守ろうという欧州の非英語圏にある考え方のほうが、私の立場に近い。いうまでもないが語族の距離が遠すぎる母語話者一般にとってどう転んでもピジン英語(現地英語)風の熟達程度が限界だし(ある母語話者一般より特定の遠い語族の言語圏の第二言語話者一般のほうがその母語に熟達するのは、幼児から親しんでいる言語情報の絶対量や脳内の基礎的言語セットから理論的にありえないし、もしそうなっていれば既に第二言語ではなくなっているだろう)、英語圏の情報に致命的に欠けている点が他言語圏に沢山あるのも確かだからだ。
 英語で国際的やりとりが容易になる事実、現地英語同士を仮の共通語として異文化圏ともやりとりできるのは体験的にもわかるが、この種の「英語の国際共通語化」の流れは、語族の系統が遠い母語話者ほど極めて不利なのが事実だ。特に科学の論文語として英語が使われてるのはラテン語同様、今だけと思う。
 最も考えられる流れは、即時翻訳できる情報技術が英語帝国主義をひとりでに止めるだろうということだ。だからそちらはおそらく問題ない。

 寧ろ私が以前から保護運動に近い研究してる方言圏、アイヌ語圏の方が致命的な目にあっている。標準語帝国主義は方言の多様性を蔑視させているからだ。方言でしか語りえない、知りえない情報、質感はほぼ無限にあるから、その世界を標準語母語話者は原則として全く知らないのは当然として、差別対象にしているのは明治帝国の最大の罪の一つである。戦後もこの点で、まるきり文科省その他の東京政府が自文化中心主義から脱していないらしいのは実に愚劣である(つまり方言教育、アイヌ語教育、それらの保護・使用促進運動など国内の言語多様性を教育面でも文化面でも完全に無視している)。
 京都に移転した文化庁は、寧ろ中世の京都中華思想に先祖返りし、ますます方言世界を蔑視するばかりか、今度は京都弁を上位言語と自認しつつ、標準語を関東方言扱いで蔑視し始めると予想する。だから私は全地方のため京都文化庁もさっさと解体すべきと思う。市長の門川大作氏が失脚したらそうなってほしい。なぜ門川氏の失脚が前提かといえば、彼の京都市制定「世界文化都市宣言」に基づく文化首都イデオロギー、中華思想的な自文化中心主義が、文化庁招致構想や、今後も彼が公言しやりたがっている京都への皇族招聘構想という、尊皇論以来、暗黙の御法度とされる皇族の政治利用の原因だからだ。