今気づいたけど、フェミニズム的な女性中心主義のなにが問題か把握できた。それはこれが「男女同権」や「性差(社会的役割としての文化的性差)の公平」ではなくて、平等という言葉で女性ひいきを行おうとする立場を有利にする目的ということだ。正直、私はそっちのがいいんだが自己欺瞞的でもある。
ここでいう性差は、某自由記者が某展覧会のコンセプトで使ってる様な通俗的な「性別差」の意味ではなくて、学問的定義に近いそれで、例えば弱虫なエイセクシャル男性でも危機のとき優しく助けてもらえるとか、勇敢で猛々しい女性も戦場の最前列に立てるとか、性同一性障害も尊重されるなどのことだ。
なぜ私はそっちのがいいというかというと、私は高校が男子校だったんだけど、こどもの段階で父親以外はいつもいる家族が女性だけだったので、女性に囲まれている状態が普通で、感性の面でも女性に近い感じで繊細かつ優しい。男性社会的なものも適応はできるが、自然に女性中心社会に戻ってしまう。
英雄は色を好むという諺。これは健康な男性はテストステロン値が高いと解釈できるが、理性で抑えてるから必ずしも性依存症だの遊び人にならないわけで、色好みがみな英雄なわけではない。そして私の場合、この傾向なのかなら、女性社会中心の育ちなだけで全然女遊びなどしていないが多分ある種の英雄である(自分の道への本気度という意味でとても長期間、命すれすれまであらゆる努力をし尽くすなどの点で、自分と似た男性はみたことがないので。女性では妹島和世さんという一応、自分から師事にいった人で1人だけみたが。もっといえば本質的には色好みなのかもしれないが極めて理性的なので、硬派なわけだ)。
で、私は素で女性中心社会のが楽でいいなと思っているので(男性社会の質が低いと起きがちな女性を性的なモノとして扱う観念とか、まれに起きる上位を争う格闘といった、芸術を楽しんだり愛を歌うこと以外の野蛮な要素みたいなのがないので)、フェミニズムの男性差別は違和感を感じつつも、女性中心集団の方が自分的には順応し易い感じがする。
つまり、私としてはフェミニズムが猛威をふるって女性中心社会になっていってくれたほうが個人的に楽なわけだ。たとえば一般の上場企業みたくおじさんたちの間で男性社会的に生きていくなんて全然したくないが、女性だらけの職場なら自然にいられる気がする。私は弟だったけど大人しくしていればいい。
1.男性中心社会vs女性中心社会なら後者の方が自分には楽っぽい
2.しかし女性ひいき・男性差別のフェミニズムは明らかに逆性差別
3.世間的なフェミニズム運動は逆性差別をあおってる
4.黙っておいたほうが自分には有利なんだけど、逆差別の差別性に気づいてしまっている以上、反対すべきか?
自分と同じ様な感じを述べてる人はただの1人もみたことがないので、一応書き残してみた。
性差平等を某記者の文脈で「性別平等」として使ってるのは単純に性差(社会的性差:gender)の社会学用語の面で完全に誤用と思う。だとして、性差別からの解放は全性別や全性差が公平に扱われることと思う。
「女性ひいき(かつ、トレードオフで男性差別)」が凄く有利になる世論というのが、昨今の欧米圏、特に国連で作られている運動と思う。そこではもともと男性社会でも弱者に属する男性や、性差が複雑な男性はますます不利な立場におかれ、二重の差別を受ける。だから私心を除けばこの流れは邪悪と思う。