>あまりに痛ましい事件だ。だが、いつか起こると思っていた。予兆はあった。たとえば、16年の小金井事件。熱烈なファンが豹変し、本人を襲撃。アイドルやアニメは、そのマーケットがクリティカルな連中であるという自覚に欠けている。
>京アニは、一貫して主力作品は学園物なのだ。それも、『ビューティフル・ドリーマー』の終わりなき日常というモティーフは、さまざまな作品に反復して登場する。
>それもこれも、京アニという製作会社自体が、終わりなき学園祭の前日を繰り返しているようなところだったからだろう。
>学園物、高校生のサークル物語、友だち話を作り、終わり無く次回作の公開に追われ続けてきた。内容が似たり寄ったりの繰り返しというだけでなく、そもそも創立から40年、経営者がずっと同じというのも、ある意味、呪われた夢のようだ。
>そして、そうであれば、いつか「獏」がやってきて、夢を喰い潰すのは必然だった。
>なぜ学園物、子供以上大人未満のジュブナイルが当たったのか。なぜそれが日本アニメの主流となってしまったのか。中学高校は、日本人にとって、最大公約数の共通体験だからだ。
>だが、実際のファンの中心は、中高生ではない。もっと上だ。学園物は、この中高の共通体験以上の自分の個人の人生が空っぽな者、いや、イジメや引きこもりで中高の一般的な共通体験さえも持つことができなかった者が、精神的に中高時代に留まり続けるよすがとなってしまっていた。
>それは、いい年をしたアイドルが、中高生マガイの制服を着て、初恋さえ手が届かなかったようなキモオタのアラサー、アラフォーのファンを誑かすのと似ている。
>夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより「学園祭」体験を求めている。だから熱烈なファンになったのだ。
>自分自身のアイデンティティ無き「顔無し」は、あたかも自分自身で作ったかのように作品群に心酔し、批判を狂ったように蹴散らす。グッズを買い集め、「聖地」を巡礼し、いつか一線を越えて、作り手の領域、作り手の立場にまで、かってに自称で踏み込んでいく。
>最高に熱烈なファンの自分こそ「学園祭」の一番の主役であるはずだ、と。だが、それを拒否された、否定されたと思い込めば、彼らの凶暴なもう一面が歯を剥いて襲いかかって、破壊に転じる。
>終わりの無い学園物のアニメにうつつを抜かしている間に、同級生は進学し、就職し、結婚し、子供を作り、人生を前に進めていく。記号化されたアニメの主人公は、のび太もカツオも、同じ失敗を繰り返しても、明日には明日がある。
>しかし、現実の人間は、老いてふけ、体力も気力も失われ、友人も知人も彼を見捨てて去り、支えてくれる親も死んでいく。彼らは入れてもらえるリアル中高生のようなLineも無く、数十万もの言葉をいまだにtwitterで虚空に叫ぶ。
>こういう連中に残された最後の希望は、自分もどこかすでにある永遠の夢の学園祭の準備の中に飛び込んで、その仲間になることだけ。
>時代のせいか、本人のせいか、いずれにせよ、人生がうまくいかなかった連中は、その一発逆転を狙う。
>だが、彼らはあまりに長く、ありもしないふわふわした既製品の夢を見させられ過ぎた。それで、自分で自分自身の夢をゼロから積み上げて創れない。一発逆転も、また他人の出来あいの夢。だから、かならず失敗する。そして、最後には逆恨み、逆切れ、周囲を道連れにした自殺テロ。
>いくらファンが付き、いくら経営が安定するとしても、偽の夢(絶対に誰も入れない隔絶された世界)を売って弱者や敗者を時間的に搾取し続け、自分たち自身もまたその夢の中毒に染まるなどというのは、麻薬の売人以下だ。
>こんなビジネスモデルは、精神的サブプライムローンのようなもので、いつか破綻する。そして、実際、その崩壊が始まった。リアル中高生が食いつかず、市場が高齢化し縮小してきている。
>まずはこの業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別する必要がある。もう学園祭は終わったのだ。
>あれだけの京アニの惨事を目の前にしながら、よりタイトな状況で黙々と規定の製作スケジュールをこなそうとしていることこそ、異常だ。この論考は、自分がこれまで見た中ではメディア全体の京アニ礼賛報道への「全会一致の幻想」のなかで、唯一、きちんと京アニのもともと抱えていた問題(純丘氏のいう「永遠の学園もの問題」は中二病患者を量産していた)を摘出しつつ、京アニ批判を加えている。その点では非常に見るべきものがある。
>こんなときくらい、京アニにかぎらず、業界の関連全社、いったん立ち止まって、仕事や待遇、業界のあり方、物語の方向性、ファンとの関係を見直し、あらためてしっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。
以上、純丘曜彰氏「終わりなき日常の終わり:京アニ放火事件の土壌」(2019.07.21、INSIGHT NOW!)ページ1、ページ2、ページ3、ページ4より引用。
この論考の欠点は、「永遠の学園もの問題」は日本人の京アニオタ(もし純丘氏がいうとおりなら容易にファン・アンチの両極へ転化する、双極性の中二病と考えられる)を一般化しているにとどまるのであり、海外の京アニオタや、礼賛一方に偏っている国際メディアバイアスを説明できないことだ。
>リアル中高生が食いつかず、市場が高齢化し縮小してきているなる部分も、統計データの様な裏づけがなく事実なのか私にははかりかねる。中高生より中年層以上のファンのほうが主になっている、という「中年向けアニメ仮説」。根拠を多分彼は持ってるのだろうけど、少子化と混同してるのではないか?
自分の感じだと、どうみても『けいおん!』みてるとは思えない国連のおじさんとかが素でいきなり京アニ擁護しだしたのは一種の喜劇ですらあって、「いや、作品1個もしらんでしょ?」「なんで知ったかぶってるの?」って話だ。サブカル俗物の理論的裏づけは村上隆のスーパーフラットしかないのだが。
つまり外人の京アニオタはちゃんと作品のファンなのかもしれないが、それ以外の国際メディアは有名観光地としての「京都ブランド」に重ねた「日本産アニメ」全体と、今回の炎上を混同していると思う。京アニはアニメ界からみたらニッチな世界なのは確かでしょう? 普通に見たことない一般人のが多い(京アニ作品は、アニオタが選択的に観ようとしないと一般の目に触れる機会が少ない深夜放送のすきまアニメで、ゴールデンタイムの全国放送テレビでやってない)。
では、外人の京アニオタ一般が「永遠の学園もの問題」を抱えているか? 前ネット記事かなんかでみたドイツかどっかのアニオタは、社会適応できずアニメに逃げ場をみつけ、部屋中に二次元美少女のグッズを敷き詰めて日本最高! とかいっていた。この点で外人オタクの中でも、アニメ自体が逃避先にされてるのは事実と思う。
「永遠の学園もの問題」は、現実逃避先として終わりなき日常系幻想のなかで、中二病を無限延長させる。この点で純丘氏の批評的観点の本質、つまりアニメが現実逃避の手段になっているのは外人の京アニオタにも一般化できそうな気がする。しかし、それは学園ものが彼らにも共通体験だからではない。
ここで外人のアニオタ一般(京アニオタ含む)と、日本人のアニオタ一般は、学園ものを見る視点が違う。外人は異国情緒、特にオリエンタリズムの目で京アニ作品をみていると思う。『けいおん!』『涼宮ハルヒの憂鬱』とか女性が主役なわけで、まさにサイードのいう東洋人への偏見と合致してしまうのだ。『源氏物語』ファンだった日本文学研究者のドナルド・キーン氏もそうだったが、京アニファン外人の熱狂の影には、そしてもっといえば国際メディアがフェミニズムと絡め京アニ礼賛する背後には、オリエンタリズムの偏見を強化するのに都合がいい色々な条件がある。女性らしいと同時に、馬鹿っぽいアニメ(女性一般を馬鹿にしているのではない)だからだ。
柄谷行人がどこかで、大江健三郎と西洋の詩人何某のやりとりについて「西洋人からすれば日本人が理知の分野に立ち入らず、永遠に芸術の様なそこからみて情緒的で幼稚な分野にあそんでいてほしい」といった偏見がある、と指摘していた。いわばプラトン詩人追放論の延長にある、オリエンタリズムである。外人の「永遠のオリエンタリズム」への期待が、特に中世都市の京都や、近代都市の東京などの珍奇さを異国情緒として無条件に礼賛する態度になり、海外から隔絶され文化風習が歪み独自進化しているが、それに無自覚な独創性の高い芸術的な島国という日本への偏見に重ねられる。京アニ礼賛もこの一部だ。
例えば男性らが主要登場人物である人気アニメ『ドラゴンボール』『ワンピース』などの外人ファンはオリエンタリズムのなかにある東洋人の女性視を全く持っていないかといえば、日本産アニメのなかに出てくる女性はある種の女性性を偶像化された性の記号だったりするので(ブルマとか)、必ずしもそうではない気もする。エロアニメとか同人誌みたいな二次創作分野だと、このオリエンタリズム性はより直接的に表明されている。つまりアニメ中の女性キャラクターが娼婦とかあばずれといった役割だけを演じさせられ、オタクの自慰目的の慰安婦(性奴隷)にされる。外人はオリエンタリズムを含んでアニメファンなのだ。「萌え」という概念は、クッパ姫ミーム(Bowsette meme)で明らかになったよう、このオリエンタリズム的な女性性の記号化を含んでいる。クッパ姫とは外人の二次創作で始まった、任天堂のゲーム『スーパーマリオ』シリーズのおそろしい姿形のボス・クッパが女性化されたキャラだ。
アニオタらは国内外を問わず、気兼ねなくオリエンタリズムに立脚できるニッチとして日本産サブカルチャーの二次創作を始めている、といいかえてもいい。京アニの代表作の場合、はじめから登場人物は女性中心なので、アニオタは自らの根底にある東洋差別の為、他意なく作風を礼賛できたわけだ。
では外人アニオタの心魂は大体こんなものと推定されるとして、国際メディアのほうはどうかといえば、上で少し触れたが「永遠のオリエンタリズム」に好都合な中世都市が京都であり、その名がついたアニメスタジオは、ますます日本を無害な芸事に耽る女らしくて愚かなジパング化するのに都合がいいのだ。
恐らく国連で擁護したひともだけど、京アニ作品とジブリ作品、カラー・ガイナックス作品とか一切見分けてないであろうと思う。素人レベルだと、日本産アニメは全部同じ場所から生まれてるかの様にみえているわけだ。それはアニオタでない一般日本人からしても多かれ少なかれ同じだろう。
純丘氏は、彼について私は寡聞にして今日はじめてしったけど、彼の経歴や文面から推察するとアニメ史を系統的にきちんと研究されてる方なので、京アニがアニメ界のある種のニッチといってもいいのを熟知されているはずだ。子供が『らき☆すた』をみんな見てますかといえば普通に見てない。『サザエさん』のメジャー度とは全然違う。つまり国際メディアバイアスが生まれてきている原因は、純丘氏のいう日常系のねじけた時空である「永遠の学園もの問題」と無関係に、オリエンタリズムの眼差しを強化するのによい機会だったからだと思う。外人の一部が脳内妄想としてもつゲイシャ幻想と『けいおん!』の女キャラは、東洋人なるもの(ここでは日本人なるもの)に彼らが望む女性性をまとった偶像とほぼ完全に一致するわけだ。
「永遠に芸事に耽って、政治的・経済的・理知的に無害な物珍しい日常系だか学園物だかを、中世から孤立した島国のなかで永遠にやっててくれれば、たまに旅行にいけるし、いいな」
こういう実に素朴な京都幻想を、日本幻想と重ねて、オリエンタリズムの判子で押した。これが国際メディアの真相と思う。
京アニ側はどうしたか。このおよそ悪意のない(がゆえよりいっそう深刻な差別や偏見を含む)オリエンタリズムの逆差別を真に受けている。「世界の皆さんに応援されている」と解釈している。一見、アニオタやメディアと、作り手の麗しい愛なんだが、純丘氏が指摘するようこれは構造的病の無視でもある。
今現在、アニオタは勢いづいて純丘氏をネット炎上させている。彼の名前でグーグル検索すると、上位結果はほぼ純丘氏への集団虐待じみたアニオタ暴徒からの一方的な誹謗中傷で埋まっている。「一生恨むぞ」「死に絶えろ」レベルの犯罪じみた脅迫も多い。けもフレ脅迫事件(『けものフレンズ2』の制作陣を、前作『けものフレンズ』の衆愚化したファンらが、作品が気に入らない、前作の監督を復帰させろなどと言いがかりをつけつつネット上などで執拗に脅迫した事件)もだがアニオタの常套手段だ。
サブカル全般がそうだが、大衆商業娯楽に感けてる程度なので反知性主義の傾向がある。ゆえ純粋美術で普通な批評言語がほぼ欠落している。オタク内では「語彙力()」(語彙力が足りないの略+(笑)の短縮化で())などネット俗語で、互いの批評言語のつたなさを自虐ネタにする場合も散見される。だから否定的批判が安易で攻撃的な脅迫になるのだ。
純丘氏の当論考は、サイトから除去されている(アニオタの一部が魚拓で保存していた)。BIGLOBEニュース編集部の取材によると、(恐らくアニオタからの)複数の通報を受けたサイト側が規約に照らし不適切発言があると判断し、表現を自主規制したらしい。純丘氏への危害を懸念したのも、非公開にした理由の一つという。純丘氏自身によると、「炎上」を受けて同サイト側は一旦、記事削除に踏み切った。純丘氏には事後報告だったという。
要は京アニオタ一般は、自ら信じる現実逃避のアニメ教がおびやかされていると感じ、外人のサブカル・オリエンタリズムを追い風に、一教団本部へのお布施を免罪符として大盤振る舞いしつつ、不安を追い払うべく暴徒になって魔女裁判のスケープゴート(いけにえ)を探している最中だ。
純丘氏は最初の論考で「アニメ教団そのものを考え直しましょう」と宗教改革を唱えた。「アニメキャラとの学園祭へ、永遠に中学二年生として参加などできないのです」
ルター役の純丘氏を磔にしかねない京アニオタ暴徒の大発狂は、中二病は正論で少しも治療されないと示している。