2009年2月28日

中央統制の審美的限度

それが審美的でなくとも、知的概念や道徳理念は評価される可、と考えるのが通常ならば「芸術として」の文物を過剰に見積もる傾向が風土的に内在している文化の危険は、たとえ見にくくとも真理である事象から目を背け勝ちになる過剰な品性に逆説として弱点視されうるのだろう。育ちが良すぎるということは或いは通用の世間知らずとか、皮肉の起源として郷士へ大陸旅行を敢行させるファウストの逆理とかで説明されるのがつねなら。勿論独創の為にどれだけ感性の鋭敏さを形質投資にあてても損は買うまい。だが標準を構えるとか、野生味あふれる豪快な業績とかの非選種な手当てに対して、繊細さはかなしくあだともなる。
 経済が唯一の国民倫理ではない理由もここに見つかる。泥沼に降り立つ丹頂鶴はその美しく長い足の為に滅多に羽を汚さないかもしれない、一方で彼が目的として摂取するのは干潟に土着するダボハゼなのだ。無論どちらが望ましい生態とも言い切れず、努力の余地を最低でも地方生活の素朴な体質へ確保しておくことは我らが一時の泡沫に戰ぐ貴重な絶滅危惧種でのみありえないというなら、必然なのである。眉を潜めるばかりに血みどろの訓練を経た貧困層出の選手が、にも関わらずある種の成功者だと言える野趣を社会風紀へ幾分かのこすべきは、平安の御代にて支配的富裕層の次第なる柔弱化を将来的に補う方法でもある。