2009年2月28日

東洋のくびき

文化サロンを数多く持たない伝統は必ずしも後進の特徴というのでもなく、期待される社交の役割が顕著にか密かにか洋式ではない証拠でもある。生産性の観点からすれば上記の見解は照葉樹林文化にとっての普通でもありそうに思われ、かれらには労働集約の土地生産性向上戦略が慣習的だったか適応的なので相互の連携は耕作の効率や効用と離れて為し能うと考えられ難い一つの制約が掛かっているともいえそうだ。

 ある博士が講義録で、孤立型・対話型・集団型という研究体制のパターンを類型化して居られたが得意苦手の対句を越えて、漢詩ならぬ学問の推敲には地域の特色を復興させるべき条件がありそうである。特に、稲作の行われてきた場では村社会的発祥が一般なので概して孤立でなければ集団へと二分極の性格へ誘われやすい。閉鎖的談合の中へ混ざれなければ排除するといった八分式空間の研究法では、公開討論や参加可能な談話の場を用意するのは余程困難だし、かれら土民のなかには議論と喧嘩の区別がつかない蒙昧の痴が珍しくもない融和の風習が蔓延してもいる有様だ。東京都民の衆愚らがよく使うこの種のあしき俗語として、明らかなファシズム的村八分と全体主義を意図して各個人から意見並びに討議内容の多様さや言論・表現の自由を、その群衆性によって剥奪封殺したがる「空気を読め」「(この語を略して)KY」という命令語がある。
 単純に議論の機会を多産するといった不自然な恣意ではかれらの村社会を一層強固に保守化するばかりで埒も明かず仕舞いとなる。

 ここでは適所を人為的に創造する工夫でしか、旧套を脱する習性を身に着けさせられない。喫茶文化をopen cafeの経営で導入し、大学での公開討論をテレビ中継し、広い社交的対話のきっかけを学校授業の一環にすること、これらでも鬱々とした東洋式文化の閉鎖的性向を一掃する契機となるなら我らにとってはもはや伝統の定義自体を改善しなければならなくなるだろう。Orientalであるとは奇形的な異国風であり続けることではない。退行した東京町人による御宅文化の醜風は一切絶やされるがよい。
 現状の半東洋的社会を更に徹底して西洋化することは必ずや、子孫の社交性の向上に適いその健全に益するだろう。しかしそれが決して日本らしさを喪失させまではしない。漢字を用いても中国人である必要はないのは洋服を着ていても欧米人たるのに十分でないのと同じ。田園には高い教養が、また都市の逸民には強壮な先進文明との容赦なく厳しい競合的淘汰圧が東洋のくびきを再検討する、現代的命題なのは誤りない。