2009年2月25日

格差

格差、という認識が時代の流行になって久しい。だが個性の掛け替えの効かなさ、始点の条件は、本質的に(言い換えると「法の元」に)のみ飽くまで権利の上で平等とされるべきというアメリカ独立宣言以来の伝統として擁護されているのが現状なのである。というのも、格差という共産主義的言辞に比べて、努力差が世代間で蓄積されない筈がないのだから。それは文化と呼ばれている。
 重要なのは品位を落とさない程度の救貧への適宜な調整であって、人生の開始点をも平等一律へ引きずり下ろす極端な暴威ではない。如何に勤倹奮闘してもちっとも家庭文化の向上しない環境、また国家の名のもとに全財産を世代毎に全没収される場所がもしあればそれはマルクスの野望が最も邪悪な姿であらわにされた、どんな努力も無意味と化す無間煉獄なのが疑いない。従って成功した努力家を正当に評価厚遇し、却って税制の景気自動平衡機能を損なわぬ限りで一律課税を推し進めるのは民主主義を標榜する一時の思想傾向の流布が、単なる頭数において労働者階級の支配権をますます強調する風議のさなかにあっては真に財政の、取るに足りないごく少数なテロリストの駄々を敢えて鑑みぬつとめである。結局かれらのやり場のない絶望は共産圏でしかまるで解消しないのだから。我々がもし少しばかりの社会学の嗜みさえ顧みれば、民社主義は今日で最も理にかなう保守の仕方であると北欧を模範とし、理解するだろう。