「非実証論理の沈黙義務性」はウィトゲンシュタインが述べた見識。例えばこれ自体がラッセルによる『論理哲学論考』への注解にある如く、一つの義務違反。実践の理は全て環境科学と違う公理系を規則づけたがる意志、所謂我々が実証知性、実験で検証できる客体的知識の集合と区別した理性か理由づけの能力から育まれる。
言論による行為として言い訳という言葉の示す行為、が悪意のかけらどころかそればかりな保証も何らない。数理を含む言葉はどれも精確さで完璧でありえないから。そこへも程度問題しかない。つまり全ての社会生態の規則は、もし彼らが道具な機械系でないなら常に新たに生み出されるを得る。これは浮動的環境という厳密に完全法則化しきれない世界での群生に一定の規則を保ちたくば必要。より緻密には、どの科学知識も数理比例やその図形と音符のあてはめでの合理化の程度問題でしかなく、結果には全ての形而上学識や論説もこれと同等か少々緩い正確さしかもちえない。勿論 一定の有用さへの設えはあるし、あってきたが。結局 言い分から社会生態の規則が分化していくのはそれらの個性間に異なる程度の学識や教養、思想や思考反応の内容が認められる限り否応ない。場所毎の倫理は違う目的や理由を保つ。とすれば、ウィトゲンシュタインの文句は義務性というよりは可能性、つまり何々しなければならない式の文脈よりは何々できる、の元でより正確になる。そこで、非実証論理の沈黙可能性は我々が法的に黙秘権とよばしめてきたものとほぼ相似。これは倫理学上では形而上論野に通用できる言葉として沈黙権と呼んでもいいのだろう。哲学していく者が沈黙しかしえない場面は、それが彼の知識内にない推論を真理と誤解させない為か自らもしない為に十分。
想像を超える全知に対して万知か最低でも博識の域へ主観を留めおくことこそ、哲学的に誠実な態度となる。これはカントによって著作内で啓蒙的態度と定義されていた筈。消極的批判が有徳なのは、全知に至ったと勘違いしない為に、自らやその類縁へ常に反省や知っているのと異なる学識への関心を保ちつけるに効き目あるから。