2010年5月6日

理想と止揚

哲学な言辞か知恵者らしい言い草はその徳の為というより生態内規則づけの感覚基盤にうつ貢献と思える。悟り深さは地域の文明度に至るとき最も望ましい効果を伴うのも、この為。もし知恵が重きを措かれる場があれば、そこは感覚基盤への穿ちが有用な所。乃ち風変わりな理想を肯定できる適所だろう。主にそこは独特の國柄でしかもごく狭い範囲よりは、程度あれ複数の思想がもちこされる丈大きい。つまり大和さが要る。こういう集団は当然乍ら特別な地位を占めがち故、別の文化系統との折衝で固有の立場を設けて行く。とすれば、政治行動の専らの因果は理想間の照らし合いの中で最も勝れた國柄を導き出す所。この集団を国家論はのみこむ。世界精神にとっての舞台は編入と住み分けの中で覇権を通じた理性的淘汰を行う所。
 功利主義観の究極は又最高度の理性種が支配権を占める境遇に求まり、にも理想論の高下が快さの上で自律による協調の程を限りなく神格への漸近で試みる種内弁証法が見つかる。程度でみた理性は彼らのもつ行動規則内へ國柄を照らし出す。故総べた学識や教養は種内外で止揚が如何にその智恵を説くかに等しい。論理一般の哲学用法は禅問答で営まれるより高い次元の第三極を通常の対極から見出だそうとする運動と同じ。それは推論への考究であり、同時に理想観への道のり。
 倫理が理性的な根拠は以上。
 対局か戦局の予知は勝機への悟りの深さと類似。故真に理想の完成されている民族はそうでない民族へ必然に打ち勝つ。一見そうでない風趣があれば、囮か道化で自滅する前置き已。共生の程や形は一時的で決して絶対者そのものより理想いでない。だから手段な生態は時節で変わる。普通この理想度は哲学と云われる。結局その行動規則が他のどの生態とも違う為、理想度での絶対化順位が消費性向へ与える苅り方は最も合理的か理念に叶うのでどの生態にとっても保守さるべきで、そうであればこそかなりの定常観や多様化は希望める。結局貴族な幸福主義の内にどれ丈望ましい教養が含まれるかこそ以外か以下の界隈の命へも明らかに映し込まれる。理論の程度はその侭場の倫理でもあるのだ。そして神話が復活するのも究極の貴族界で、少なくとも永続した文明の適所でだろう。こういう世界は理性の原則に遵う限り、道徳の順序で訪れられる。
 消費生態の順を客観しても摂取の複合さしかないだろうが、猶そうでない下位生態帯よりある観点から幸福か。感覚基盤がこの折り畳みなら上位に属した消費体系はそれ以下の経験を短い間に素早く済まし、何らかの想像できる複合した摂取へ進出できる。感覚現象論は彼らの理論の細やかさでもあり、その定常化した体験がどの生態界隈へ適応しているかを明かす。知性で知れるのは自然現象の規則だから、形而上理念による道徳観はそこへ適応していく生態の予見だろう。趣味観は結局この上での慎みや嗜みでしかないしそう足りえる。