2010年5月4日

偏差値教育の改善について

偏差値順位制風の予備校産業含む入試偏重による学歴符号の戦後つくりあげられた教育体制、つまり東京大学を頂点とした学歴符号づけが官僚主義と大企業への新入審査での効率いい人事に利用されてきた倭風社会体制は、全面で万能どころか欠点も多く指摘される。簡単にいえばこの体制は工業化の余地へ泡沫の高度成長を急いだ時点での利益率へ最適化した自ずとできた仮のもので、永久では無論ない。東京大学自体、地上の歴史からみれば後進の設立。
 学歴社会化への誘因は、特に学習塾やそこからできた私学を含む予備校産業がおのが存続を死守したがる限り減退しても完全に消える日は未明。この煽り自体、共通試験用の解読型知識を手早くつめこみ偏差値向上へ組織で教育する技能を売り込みたがる類の産業の、利潤追求心で促されている。つまり大企業が偏差値順位をおおよそとした人事差別を効率的な故に採用しつけ、政府やそれに類した機関からの公徳で学歴差別を法で禁止しないかぎりは、産業界はそれが独創性にとっては害でも詰め込み式の受験適応の急ぎ足の若者への駆り立てを行い続ける。恰も自動機械の様に彼らの先代から受け継いだ富を保つ為だけにさえそうするのだ。
 これらの公徳が理解される日は、自治体規模ごとの市民観で大幅な時間差ができてくる。地域毎に教育条例で補う中でしか大企業側に何かの形で属した会社員が人事考査で学歴、より日本的には型通りの若齢で特定学閥の学部卒な証書による実質的な身分差別を奨励や扇動しつけるとしても、我々は品格論とか高貴なる精神に訴えるという不合理な消極性でしか、その慣性を留めえないだろう。国全体が企業内人事での学歴差別を禁止する法律を発布するのは、特に企業献金で選挙活動を行いたがる俗習がまかり通っている内閣構成員のあからさまな実情では殆ど事件や普通でない人物の政党綱領の改造に待つ他ない。更にこの一気呵成な実現は寧ろ民業壊乱にも近づきそう。
 積極面で事態を進展させたくば、というのも符号化理論の経済学説がイギリスで発祥しそこからの功利優先な進歩思想の伝播が先進国間を覆うのは何らかの例外なければたとえばあまり賢くない場合で全体国家主義からの反抗、よいときには別の経済思想の応戦と浸透といった面で確かで、且つそこで打てる手は多くないからでもあるが、代償となる割合を定めて企業活動が教育の自由やそこでの機会と能力の不平等へ幾らでも介入できる現状を、よりましな方へ導くといわゆる富または階級再生産への一定の事前対策としてはいいと言える。要は就業の自由という考え方で、企業活動の教育界への癒着や利用を制限するといい。具体的には能力が定かでない段階での経歴書への学歴(過去の学校経由歴)を記述させる、非人間な偏見からの差別行為への叱責として人事税を導入する事。そしてこの多さや量は、人事考査への本来の余裕分の留保率を見越して企業の持つ富による大きさ毎に累進化すればいい。仮にそうしても大企業が負担を続ける場合も可能だし、中小企業は否が応にも能力主義化せざるをえずどちらにしても、流動性がとても薄く硬直化した倭風学歴差別の先行き詰まった社会体制への有力な活性剤になる。学力と学歴の違いが理解できるノーベル賞権威へ一本槍で狂信風な追従状態に無縁か反感をもつ個人にはこの意義が分かる筈。それは西洋覇権型全体主義の言い方をかえた別の姿だったので。
 これで今は外部化や事実上外注されている企業ごとの能力人事を、その本来あるべき内部留保からの引き出しへと再び設え得る。そして教育界は失ってきた教養教育や企業予備校としてではない通常の学問や研究へ向けた生涯教育化へ広い門戸の理想を幾分か、場合によって回復できるかもしれない。