2010年5月17日

近代化に伴う日本文明の断罪

工業進展の清教徒原理との結合が西欧からの植民侵略の原動力だったとは言えそう。もしそれがないなら、各地はかなりの孤立と自助な発展を続け、ある時点で別の展開をしたろう。神の摂理として天職倫理を伝播させるべく、野蛮で弱体な社会の人為淘汰を謀るのが文明の義務と考えられた根拠は否応ない西洋圏での覇権の必要性からだった。内部抗争が絶えない圏域での工場要員の需要が、摂理としての植民を社会進化論へ合理化させた。歴史現象とみれば、この作用自体が唯一回的、不可逆的、特殊経験、文化偏差的事例といえる。もし商交渉のみを消極的に行う、中世日本での遣随遣唐使だけでのやりとりを続けていけば、明治維新中の西洋模倣を指導した福沢諭吉などの唱導者や薩摩長州肥後をおもとした元勲が徳川時代やそれと同等の閉鎖された国家内でより別の展開をみせたことは考えられなくない。彼らの中でつくられつつあった自然理解への道筋は、別の数学によって別の姿で体系化された可能性もある。同様の展開は各地でありえた。彼らの世界を暴威でこじ開けた経験が、西欧の列強と例外な日本をそうでない国柄からひきはなす近代化の特徴とした。福沢はじめ藩の石高でも下級の武士は明らかな世継ぎと身分階級の固定化傾向に抑圧された過去から、その外邦人の到来の機会を捉えて、既存の秩序を欧米の力を借りて裏切った。我々はこれを、同じく武士階級から長らく横暴に遇されてきた民衆のええじゃないか感情にかけて明治維新として美化している。現実に起きたのは、当時の体制からみればクーデターか公家と組み国家転覆を企てつつ大多数の国民を出し抜いた組による乗っ取りであり、その恐怖政治支配は第二次世界大戦まで続いた。自由民権化をし惜しみ、少数派支配か寡頭体制を維持する為に実践的指導者の立場に着いた明治の元勲とやらは、おかしなことに、徳川時代の政権の体制を自ら踏襲していった(島崎藤村『夜明け前』はこの歴史的評価へ糊塗されてきた維新画のみにくい裏側を描写しようとしている)。実際絶対主義の対象がいれかわったにすぎず、天皇を表へ引っ張り出した他、今度は華族や公卿を中心とした疎外が進んだ。この歴史経緯を反省してみると、日本の近代化は二種の意味で特殊。一つは外部からの圧力がそのきっかけだったことで、もう一つは内部からの乗っ取りでそれが図られたという例外さ。より詳細にみていけば維新は名誉革命的か禅譲伝説的な側面を伴っているが、とにかくそれを計画した討幕派はこの特殊経験を二重の裏切りで果たした。先ず国民を来るべき危機のため指導してきた中世以来の武士道の原理(忠義の体系)を裏切り中央幕府へ背いた(長州征伐、薩英戦争)。次に日本との通商を望む列強へ隠密を送り込み(長州留学生、薩摩留学生)、元々国民を外敵から守る様組織されてきた体制を公家と組む中で打倒したがった(薩長同盟、小御所会議)。歴史上、明治維新期に初登場した思想家によってごまかされてきた手続きの悪さは、この緊急時に起きた幕府の内乱を断罪してこなかった。我々かなり遠まった現代の眼にはそれが客体視できるが故、孝明天皇の死後に岩倉家を中核とした公家が企てた反幕府の一連の裏切り行為を外国干渉を利用した日本人の信念への悪意であると考えることは可能だ。その一連の武力行使を伴う革命のさなかに不運にも命を落とした者どもへ慰霊の意味も込めてこの日本人同士で起きた内部での植民侵略を後にアジアへ延長された勘違いした西洋文明の浅慮からの模倣、即ち血気に逸った匹夫の勇と認める方がいい。暴力的侵略は道理で正当化できないし、西洋文明が己を狂信化した誤りか特殊経験に過ぎないから。