2010年5月16日

惑星資本主義と場所の業

和辻が『倫理学』にいう商業での相互奉仕の促進、が広域な異文化権を共有できる利害勘定で協調や取引させる大きな原動力らしい。自由圏の一国内でも産業の伝播は商人事法則の合理性で動いている。
 途上国という名義はそれが科学理解の程度から言われたものな限り或る意味の限度をもつ。どこかの発展途上国へ土着した出鱈目な一人などより普遍な知識こそが尊いと急に説明してみればいい。必ずそこには独特の反発心、つまり風土からの慣習に応じた土着した文化様式の擁護が返ってくる。例えば異宇宙文明の甚大な理解の宝庫をひきあいに地球圏では最も先進的を自認し続けてきたWASPを同様に扱えば、必ず土着した様式からの自己の文化進展の速度を擁護する立場が反応される。よりこの反応を定型化していえば、自文化の合理化機構がその理性を有する動物には遺伝勘定から本能のみならず社交心理へ仕組まれている訳。もしそうでない理性があれば、過寛容型で超開放な幾らかの犠牲をも顧みない反発心として自体が特徴的な文化を象徴で出自にするにすぎない。
 科学理解の程度、客体化された比例の現象への詳細な数量的把握が地球人が現代迄に獲得できた外部化できた知識の最も厳密な形なら、主に産業や人事の機械的合理化はこの程度に先ずは比例するだろう。道具のよさが科学系に由来する。しかし、前述の様に各文化圏には各々の自文化合理さがある。それは継続した自然と社会両面からの形質変異へ赴く。そして社交界をその場で巧くなりたたせるにはこの方がやはり理に適うからそうなってきたので、科学知識が必ずしもそれらの風習を根絶するわけではない。
 結論は商協調という各々の地政主体が自ら望む程度に応じた文物のやりとりこそ、本来の文明の社交界のありうべき姿ということだ。もし相手の求めに従った取引ならそれはできるだけ和平に基づく折半の条件で己どもの産出できた何らかの品物かしばし特産品を、同じ規則で返礼を省略しながら与えるに過ぎない。欲望からの誘惑へ至る割合、最低でも意欲が低い土地や場所では他の地産物が全然魅了しない可能性もある。全ての地域で同じ生活様式が求められていない限りそうなる筈。要は惑星経済による全地域の一体化という現象には、この点で需要誘因の文化的偏差の為に場所な歯止めが掛かる。我々は幾らかの国粋趣意者が原理的擁護の為に輸送船団か旗艦営団式な黒船の産物もちこみへ強く暴力からの反発を行いたがる場合を見るだろうし、既にあしかれ頭の堅い人はそう主張している。旧態の愛顧も、倫理的基礎付けか批判に深く則らない限り単なる退行へ終る。この批判という哲学に用いられがちな語はいつも三文記事のいざこざを捜している報道界では別の意図で濫用される嫌いがあり、その誤解を除いた少なくとも純粋な哲学系では無知の知や方法的懐疑の時代から連なる形而上論理の基礎固めの意に定義を限るを得る。だから批判は哲学の出発点で終点ではなく、理想の段階にとっては第一歩のみ。だが場所柄の歯止めというおそらく後に社会学面でより緻密に実証できるかなり必然な社交法則としては、資本主義の蔓延や摂取自体が地域主格の自由意志で営まれゆくのがその科学文化からの恩恵を、彼ら自身の言い逃れえない地域開発意図や趣味で望む程度に受けとらせゆくのにも最善らしいと教えている。商習慣は事務手続きの省力化故。この見識からは資本社交の自己展開が欲望や誘惑への弱さやそれらを批判的に選択する道を通じた地域毎の業を表現させ易い為に真の理、と言える。それらの相互参照も同じ経過を辿り、想像のつく地方性の特徴づけへ還る。そして道徳は、都市部を除けば商業の遠慮ない開発と繁盛のみが真実に全社会面で快適の指標でないと知らせるかも。