2010年5月28日

言葉と名前

我々の昔の名前は言葉であった。言葉はそこでくらす人の思いとねがいを代弁してきた。名前は、もしそうよぶのなら我々のはじまりだった。
 ところが、いつしかさかしらがおきた。この名前は元々だれにも言い及べない神棚にまつられていたものだった。けどいまでは、それは身近になり、だれが語ろうとかまわないとまでされていた。名前とはなんでしょう。その場にいた一人が聴く。それがなんだというのでしょう。あらゆるものへは名前があり、おこがましくも名付けおやがいるではありませんか。もしなければつければいい。どうして名前のひろがりを畏れるのです。あるじには答えられない。なぜならそれらは、もと名前とはちがうものなのだから。人々は、言葉のまちがったつかいみちをどこかで習ってきて、ものごとへ一々あてはめだしていた。だが人々がかんがえちがいしているそれらは、せめても言葉の示す何かとはまったくちがっている。
 ふくれあがった勘がえちがいは少しずつ人々の思いを、ねがいをかえていく。今ではほとんどの人はそのはじめのおもいちがいへ悟るほど、するどくはない。すでにかれらは世の中を、ねじまげた言葉と同じにみていた。言葉をとおして世の中を知り、言葉の中へまことを観たがった。
 私はすべてが少しずつまちがっていくのをしずかにみわたす。あたかもひとたび手をはなれた歪んだ飛行機の進み具合をみまもるみたく、崖のうえから。すべては言葉がつくりあげる嘘のあつまりだった。それに気づく人は少ない。