2010年5月3日

神話から哲学への概観

道徳系は言辞内での語彙の理由づけを自己目的化した結果に生まれる特有の共有認識かもしれない。冗長さ分の意趣、これは道徳が信仰への説教と近いのに似ている言語比例。
 いわばこの言い訳が彼らの集団行動へ転用されたとき人類は智恵を得た。形而上学か後自然学という出自のそれは、特に複数の智恵を比べて指すのに向く。しかし、方法的懐疑以来の人類のそれは信仰と違和しつけた。単に地域間の学殖交流が盛んになると絶えず弁証法の論理的理由づけが再生され易い。だから哲学が絶対な体系となるのは地域間が長い隔離か絶対者の階級を維持しなくば先ずありえなくなった。信仰からの智恵の独り立ちはこうして起きた。科学知識と智恵の重なりが慣れられると重要な言い訳を考え出す必要性、或いは理由づけによって知識層外との理解を取り持つ意義は急速に少なくなる。これが現代起きているデューイに代表される道具主義的理性の原因。つまり再生産率の高まった科学は総合した認識をどんどんと後手に回させていく。道徳は古臭い、信用の置けない言い分とまでされつつあり事実、英米圏ではお堅い倫理観よりも新たな知識の導入が重視される利発さの優位が一般な風紀の様だ。そして抗議派思想がこの欠けた部位を補う、それで十分だと歴史が社会淘汰の現象で証明してきたとも今のところ言えて、彼らの主要知識人はきっと文化の気質にあってこういう考え方を伝統された賢さの定理にすら、暗に明らかにしたい筈。言い訳としてみても、科学間の調和を目指す立場だけは彼らの中で教養人の定義を回復させる原動力だろう。個別の分野での知識だけでは、完全に誤りを防ぐことは難しい。要するに科学的構想にとってさえ智恵という言い分を排除しきれないだろう。特に日常言語を採用する知識では尚更そうなる。数理言語というものは使いこなしたければ又、これとは別の公理系に母集合を要するとあって事情は類似している。これらの形而上な議論は自然界についての碩学がなお将来どう生きるべきか、という行動指針は与えてくれないこと、そして既存の社会以下の自然界秩序しか分析し収集しないと知らせる。未知の行動を的確に行うには、実際にこれまで知られた他の智恵を用いるしかない。
 より野生に近い人類の棲息環境下で呪術信仰や民間伝承の形で保存されていた智恵は、予め未知の事態でも使える言い分を考えておいた点で、我々が現段階でしているどんな非実証的議論とも瓜二つ。要は実験で帰納化された訳でない全ての議論は哲学に属している。そしてこの系は全ての神話まで遡って、人類が生活体験内で言葉の作用から引き出した未知の疑問を便宜上の回答で満たすのに有効だからこそ、実際の効果がないとしても集団内で言い伝えられる傾向を維持している。全く哲学系がないと、その集団は将来も既に学習された環境条件下でなくば巧くやっていけないだろう。もしこの言い訳や言い分からの理由がないと、正確な詳細はどうあれ理解できない現象が無限に広がって人々は世渡りにためらうだろう。
 だから未知への適応として哲学系は廃れえない。もし類人猿が同じ能力を獲得したなら、彼らは幾らでも進歩できるだろう。仮定があればこそ実験で検証した知識はより詳細に追求できる。こういう道理で全知全能を示唆する唯一神の理念はいまだ、我々の中での史上最高の知能よりも生きながらえなければならないだろう。