品物を流通させる業に、差額を専有権の援用でさしひくという商いは本質からいって半利己的動機による。品物の達をとわずこの流通差額の盗みは、法の段階で保護か抑止的に容認されている。代わりに万引きの防止やそれに加えた商権や商法で幾らかの消費税金とひきかえにこの金利の盗難は見過ごされている。つまり流通業が善意な保証はない。単純にその働きは、昔からそう考えられた様に暴利に至り易い程たやすい。だから刑罰で余った品物の支配者から幾らかを取っていった恵まれない者を権力をもった警察隊が暴力的に駆逐していい根拠は殆どない。流通業がその利益率の方を租税率より高くもつ限り、彼らは元々我々へ利益しか与え得ない種類の製造業者よりも繁栄するのは免れず、結果利便性とひきかえに商権力の蔓延はその場で貧富の差を広げさせつづける。
もし経済を図る能力に落ち度があっても他の面で我々やその他の生態にとり大いに有徳な品種が現れたとして、こういう風習がまかり通る圏域では富む者以外は生き残り難い。社会風紀をこえて、この様な形質幅の狭まった土地ではある中位の期間の後に他の広い形質幅の恩恵を受け高い分業化を実現した系統から駆逐されるだろう。結論からいえば商権力の保持層はそうでない系統によって徐々に地上の文明社交から取り除かれる。
しかしこの中途にあって、我々が彼らによる一見すると他者へ奉仕するふりをして中間差額の搾取を生業とする暴利を悪疫として免れない間は、流通業益分の租税比率を1以上へ保つ必然性をもつ。要は製造業以外の全ての商権力者より公民から構成される市民権力が富の面でも上に位置できる状況を維持できねばならない。又、国家と国連及び地域連合を含む全ての商業種よりも一製造企業が高い資本比率を持つ事は通貨の発行がそこに属しない公民からの共通貨幣で営まれる限りありえないことだから、そこでの留保益は租税比率よりは高くても専らは構わないと考えられる。これは技術革新が止まない限りそうだろう。