なぜ社会が成立するかは、主に僻地さがその起源。故完全に遊牧暮らし已で限りなく文明間を天翔ける個体習性があれば、又そんな生態は際限ない宇宙には複数あるが、彼らに社会内適応な利他さは考えられないに違いない。更にいえば彼らは家族単位さえも解体して最小の略奪体制を維持す。要は道徳能力は社会単位の幅で決められるし、その為の適応が必要な知能行動の限度と略等しい。
政治界が最大数の群れへの機能だ、と考えるのはその正義感を昔から二分してきた議論。覇道と王道についての見解差は、何を最良の政治規模とみなすかで夫々違う。つまり群れのたちを道徳的と考えれば、覇道は無用になりその規模は縮まる。しかし知能行動そのものの程度ではどちらがより高級かをこの議論から推論のみで検証できる根拠まではない。とはいえ群れの正統さという観点のみで事態を観察すれば、多分常に覇道と王道の間には同じ原則が当たるだろう。之は正道という考え方に繋がる。常に正道を、つまり規模のより多いながらも比較的道徳観の高い群れの進路に着く限りその基本行動に誤りはとても少ない筈だ。利他さの程度、という功利主義内での議論も同じ結論を出す。至善の理念はこの功利原則な慎みを彼らの正統さで補う。いわば理想な利他さは正道に則る時のみ最大の趣味を伴う。群れ自体の利点はこの場合のみ合理となり、他の時には遅速あれ矛盾を伴う。